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【毎度お馴染み?ライブ宣伝用看板】

SNAKEPIPE WROTE:

12月26日、ROBINの4枚目フルアルバム発売記念ワンマンライブに行ってきた。
場所は下北沢シェルター
ROBINはシェルターで演ること多いなあ。

シェルターはどのくらいのキャパなのか分かっていたため、オープン時刻にはすでに会場に到着。
行列ができているかと思いきや、なんと先に待っていたのは1名のみ!
2番目に並んでしまったSNAKEPIPEである。
この日の東京は非常に寒くて、待ってる間に凍えそうになるほど。
それでもやっぱりROCKHURRAHもSNAKEPIPEもやせ我慢してライダースに革パン。
パンクは厚着しちゃいかんよ!
会場は暖かくて良かった。(笑)

今回のDJはBATTLE OF NINJAMANZのMUTSUMIがキャンセルになったとのことで、急遽SAのTAISEIが登場!
そのTAISEIの選曲を楽しみながら開演までの長い時間を待つことに。
ちなみにDJ・TAISEIはライブの時とは違い、髪をオールバックにして黒ずくめの服装。
まるでクラブの黒服(古い?)のような雰囲気だった。
曲は70年代オリジナルパンク系が多かったので、ライブ前からノリノリのSNAKEPIPE!
いやー、これですっかり暖かくなれましたとも。(笑)

7時45分頃になってやっとオープニングのバンド、THE LAST MOMENTが登場。
このバンドは初めて。
5人組のサイコビリーバンドは珍しいのかな?
感想は…うーん。ちとキビシーかな、という感じ。
演奏もノリも曲もヴォーカルも、全体にもう一歩。
ほとんど観客がノれないまま、オープニング終了。

いよいよROBINの登場!
HIROSHIはスキンヘッドじゃなくて、デビュー当時のような短いサイコ角刈り。
YASUは黒髪で長い前髪をたらし、より若返ってる。(笑)
SNAKEPIPE個人的には、YASUは前のモヒカン、ヒゲ、病的な化粧のほうが良かったな。
迫力があったからねー!

一曲目、二曲目、と新しいアルバムから演奏。
がっ、なんかヘン?
いまいち盛り上がってないよー。
「King Of Boogie Night」あたりからはいつものROBINになってきた!
MCでHIROSHIも
「今日なんだかギターの調子が悪い」
と言ってたし。
どうやら機材のセッティングがいまいちだったようで。
いつもはやらないリハーサルをやったとも言ってたし、オープニングバンドが出たのも初めて観たし、ROBIN登場の音楽も違ってたし、HIROSHIのギターもいつもの黒いレスポールじゃなかったし、「なんかヘン?」の原因がいくつかあったみたい。

そんな不具合があったのにも関わらず、やっぱりROBIN!
最終的には2/3がパンチ合戦の渦になっていて、ものすごい盛り上がり!
新しいアルバムからは全曲演奏。
「NEVER MIND」「MY WAY」からもかなり演奏。
「DEAD LUCK CITY」からはあんまりやらなかったな。
「Thunder & Speedumb」ラストの曲「Vulcanus」を演奏の時、スペシャルゲストとしてPulling TeethのSUZUKIが「ブレードランナー」みたいな化粧してギターで参戦!
さすがにSUZUKIのギターすごいね!カッコ良かった。
アンコールに2回応えて、大ラスは「MAGGIE MAGGIE MAGGIE」でシメ!
いいね、ROBIN!(笑)

MCで来年3月21日にDVDが出る、という嬉しいニュースが!
待ちに待ったDVD!
そして記念ライブもあるようなので、とても楽しみ。

観客の中に異形の人を発見!
なんとHAT-TRICKERSのヴォーカルの方。
なんで分かったか、というとあの白塗り化粧のままだったから!(笑)
あ、付け鼻はなかったけどね。
トランプのジョーカーがかぶってる帽子にあの化粧で歩いてきたんだろうか?
かなり目立つだろうねえ。
LINK13のドラムの方の姿も見えたな。
みんなROBINのファンなのね。(笑)

やっぱりまた喉が痛くなるほど叫んでしまい、足が筋肉痛になるほど飛びはねてしまった。
それなのに、ライブの翌日には大掃除!(笑)
年末までには終わらせないとね。
老体に鞭打って頑張りますとも!(老体って年でもないか)
皆様も良いお年を!

【ウサギの毛皮で作ったベスト。SNAKEPIPE私用バージョン】

SNAKEPIPE WROTE:

プレゼント用にウサギの毛皮を使ったベストを制作した記事「ライブは手ぶらで」を書いたのが11月23日。
あの時の毛皮が充分に残っていたため、今度は自分用を制作してみた。
プレゼント用とは違うデザインで、革をミックスしたややハードな印象の逸品に仕上がり大満足である。
プレゼントは年上の女性用に制作したため、オール毛皮で前身頃にパッチポケットを配したオーソドックスなタイプ。
裏地にフリースを使い、強度面と保温性を高めた。
とても暖かい、と喜びの声を頂いた。
しかし、この成功の影には苦労話も存在しているのだ。

ウサギの毛皮を加工するのは今回が初めて。
去年おととし、と2年連続でムートンの加工を経験しているため、アレよりは薄いから大丈夫だろうとタカをくくっていた。
実際毛皮の厚みは何の支障もなく、ミシンはスイスイ進んだのである。
予想だにしていなかった問題は別のところにあったのだ。
ご存知の方も多いと思うが、ウサギの毛は非常に細い。
それが柔らかさになっているが、そこが問題だった。
毛皮を動かす度に毛が舞う。
細くて軽いために広範囲にフワフワ飛び散る。
おまけに目にも鼻にも入ってきて、鬱陶しいことこの上ない。
そこでウサギ制作用に作業服を考えてみた。
洋服に毛皮が付かないようにナイロンジャージ上下、
目の保護にメガネ、
鼻から吸わないようにマスク、
メガネの隙間をなくすために頭には労働者風にタオルを巻く、
と、万全の体制で制作にかかろうとするSNAKEPIPEを見たROCKHURRAH。
「まるで昔の暴走族だね」
うっ…。

ここで余談であるが、つい最近読んだニュースに、50代が暴走行為で捕まる、というのがあった。
前代未聞のことらしい。(笑)
イヤイヤ、世の中には年齢関係なく暴走したい人、いっぱいいるんじゃないかな?
暴走行為は危ないのであまり賛成はしないけど、その心意気はよく解る!
まだ走りたいのよね、若いのよね!
ここでもまた「Don’t Trust Over 30?」みたいな現象が起きている。
ほんと最近はまだまだ元気な中高年がいっぱいいるんだな。
おー!頑張ろうぜー!とこぶしを振り上げたくなるSNAKEPIPE。

話をウサギに戻して。
もうひとつはウサギは革が小さいため、パッチワークのように組み合わせて大きな一枚にしていることが多いため、ほつれ易い問題がある。
裁断してあらかたの大きさを決めた後で、おおざっぱにでも全体にミシンをかけてほつれにくくする作業が一工程入る。
これが非常に面倒!
でもやらないことには「穴あき」ベストになってしまう。
いくらアナーキーでもそれはちょっと。(ぷっ)
裁断してすぐに縫えるレザーとは違って、こういう工程が必要なのは仕方ないか。

上の2点の問題をなんとかクリアして(それでも目鼻に毛は入ってきたけど)、暴走族スタイルでミシンを踏み続けるSNAKEPIPEであった。
その苦労のおかげでなんとか自分用ベストが完成!
BINARY ARMYらしくミリタリー調のデザインにしてみた。
このベストをMA1の上に着るスタイリングがお気に入り。
中に着るんじゃなくて上に着る、というのがポイント!
逆に言えば、上に着られるくらい大きく作ったのね。(笑)
横幅の調整もできるようにサイドジッパーも取り付けたので、体にフィットさせる着方もオッケー!
うーん、なかなかやるなSNAKEPIPE!
今年の冬はこれで決まりだね!(笑)







【スキッズ栄光の時代。パネルをクリックすると全て動画になりますので注意】

ROCKHURRAH WROTE:

今回からROCKHURRAHもSNAKEPIPEの「好き好きアーツ」シリーズのように、あるテーマに沿ってブログを書いてゆくというシリーズものを始めたい。
焦点を当てるのはタイトルにある通り、現代の膨大な情報の中で埋もれてしまった過去の人々。音楽や作家とかが多くなるだろうけど、ROCKHURRAHの気の向くまま順不動で適当に焦点を当ててゆきたいと思ってる。中には「全然埋もれてないよ」ってな有名人もいるだろうけど、今活躍中の人じゃない事だけは確かという事で、他に目ぼしい記事がない時は書いてゆきたい。

ちなみにこのタイトルは大昔には有名SF作家だったエドガー・ライズ・バロウズ(バローズ)の作品より。「火星シリーズ」「金星シリーズ」「地底世界ペルシダー・シリーズ」「ターザン・シリーズ」とかで著名だけど、いわゆるロストワールド的な題材を得意としていた作家だ。この人についてはROCKHURRAHの兄がかなりのマニアなのでROCKHURRAHは幼少の頃、それらをちょこっと読んだだけ。タイトルを拝借するなどおこがましいかも。

前置きが長くなったがその第一回はROCKHURRAHの大好きだったバンド、スキッズにしてみよう。このスキッズはパンク、ニュー・ウェイブ初期には大人気のバンドだったがその割には周りにはこのバンドが大好きという人が少なかった。誰も知らないよってほどのマイナーではないけど、実際に大ファンという人はやっぱり少ないバンドだという気がする。

パンク第2世代くらいの1977年にデビューしたスキッズはスコットランド、ダンファームリン出身の4人組で中心となったのはリチャード・ジョブソンとスチュアート・アダムソンの2人だ。
このバンドが同時代の他のバンド達と比べて特別違う個性や新しさを持っていたわけではなく(その辺が上述したように大ファンが少ないゆえんでもあるのか)、むしろかなりオーソドックスな形態のバンドだった。少しだけ違う点はこのバンドがパンクやニュー・ウェイブ=新奇なものにプラスして伝統的なスコットランド民謡、あるいは古いロックを感じさせる部分を多く持っていた事くらいだ。

<バンド名のリンク文字は音が鳴りますので注意>

ロックの中にトラッドな音楽を同居させた例としては古くはフェアポート・コンベンションスティーライ・スパンスレイドなど(どれも期待のものとは違うが)、スキッズと同時代にはテンポール・テューダービッグ・カントリー、80年代半ばにはポーグスなどがいるが、パンク時代にいち早くそういう要素を持ってたのがスキッズというわけだ。大々的にではなく、何となくイギリスっぽいスコットランドっぽいというフレーズはデビュー曲「Charles」のギター・リフから始まっている。
このスキッズの主要メンバーだったスチュアート・アダムソンは3rdアルバムの後に脱退し、ビッグ・カントリーを結成、80年代には誰もが一度聴いたら忘れないような名曲「In A Big Country」や「Fields Of Fire」(同時に誰もが一度見たら忘れないノースリーブのネルシャツにバンダナというスタイル)で一世を風靡した。その彼が生み出したのがバグパイプ奏法とでも言えるようなギターの弾き方で、スキッズの曲の中でも充分に生かされている。パンクちょっと前の時代にビー・バップ・デラックスのビル・ネルソンが少しだけやっていたような奏法を発展させたものだ。

そういう独特のギター・フレーズと力強くメリハリのある音作り、リチャード・ジョブソンの応援団風の野太い声、行進曲のようなわかりやすいメロディ、威勢の良い掛け声やコーラスといった要素がバランス良く収まったのがスキッズの音楽だ。イギリスやスコットランド人ならば誰でも身近に感じる(と勝手にROCKHURRAHが想像)民謡とパンクの融合、という試みは成功して彼らは「Into The Valley」のヒットで人気バンドになってゆく。純粋なパンクと言うよりはこの時期のスキッズはパワーポップとかに近いのかも知れないが、まだそんな言葉はなかった時代の話。

彼らは当時のイギリスでも人気バンドを多く抱えるヴァージン・レコードから4枚の傑作アルバムを出している。

skids 1st
1st「Scared to Dance」はヒット曲「Into The Valley」が入ってる関係で良くも悪くも最も有名なアルバムだが個人的には画面左側で懊悩してる人のジャケットがイマイチで発展途上という感想。イギリス盤とアメリカ盤、国内盤でなぜか収録曲が微妙に違ってたりしたな。ワイルドなのか何なのか、パーマがかかった髪形にRJ(リチャード・ジョブソンの頭文字)という刺繍が入ったシャツ、ピタピタでジッパーが半分開いたようなスリム・ジーンズに乗馬ブーツというすごい格好をしてた。真似しようとは誰も思わないようなルックスだがある意味インパクトは強かったかもね(笑)。邦題「恐怖のダンス」というのも意味不明。

skids 2nd
2nd「Days in Europa」は最初に出た黄色いオリンピックみたいなジャケットのと黒地のジャケット、2種類が出ていた。リミックス盤という程の違いはないけど微妙にヴァージョンや曲目が違っている。プロデュースは前述のビル・ネルソンで、元リッチ・キッズ、後にヴィサージのラスティ・イーガンがドラムで参加していた。今では知ってる人はほとんどいないだろうけどBASFのカセットテープ(古い・・・)のキャンペーンか何かで「生まれた時からコックニー・サウンド」とかいうキャッチコピーのがあって、そのモデルを当時のリチャード・ジョブソンがやっていたはず。その写真は恰好良かったんだが、この頃のスキッズは赤や黄色の原色ファッション、これもまたいかにもニュー・ウェイブ時代だねぇ。ビル・ネルソンがプロデュースした作品ではこれが最も良いと思えるしROCKHURRAHが個人的には今でも好きな名曲「Working For The Yankee Dollar」が入っている。

skids 3rd
3rd「The Abolute Game」は彼らにとっては転機となる作品で、この頃から後期スキッズの要となるベーシスト、元ゾーンズのラッセル・ウェッブが参加。音楽的にも練りに練られた駄作なしのポップな曲が目白押し。スコットランド産の端正なポップ・ミュージックという点では申し分ない出来だった。ジェネレーションXなども得意にしていた「パンクなのに大作」という長く壮大なバラード風の曲という路線も見事に成功している。そしてこのあたりから大人になったリチャード・ジョブソンは音楽だけでなくブレザーにスラックス、ネクタイをきちんと締め髪形も7:3というアイビー、ブリティッシュ・トラッドというようなスタイルに変身してファンをビックリさせた。バンドもある程度成功して小金も手に入れたから身なりを良くして、育ちが悪く若い頃には出来なかった勉強をしてゆきたい、というようなパンク出身にはあるまじき前向き発言もしていて、この辺の真っ当なところも逆に小気味よい。

結局、ここまでスキッズを支えてきたスチュアート・アダムソンは脱退、ビッグ・カントリーへ転身する。ROCKHURRAHの想像では伝統的なトラッドをあくまでもロックの中で展開してゆきたかったスチュアート・アダムソンに対して、ルーツ・ミュージックとしてのトラッドに本当に傾倒していったラッセル・ウェッブやリチャード・ジョブソン達との温度差なんじゃなかろうか。そのアダムソンのビッグ・カントリーは数曲大ヒットしたけどネタ切れで失速し、ずっと後に首吊り自殺という最悪の結末となってしまう。

skids 4th
音楽的リーダーが代わったスキッズは4thアルバム「Joy」を81年にリリース、これが彼らのラスト・アルバムとなる。前にROCKHURRAHが「売る気があるのかどうか」とブログでも書いたが非常にでかい顔のアップというインパクトあるジャケットの作品だ。これは前3作とは明らかに違っていてポップで売れそうな曲は皆無、そして勿論パンクでもなく、スコットランド民謡を大々的に取り入れた実験色が強い異色の作品だ。おそらくセールス的には散々だったろうが、最初はキワモノで始まったニュー・ウェイブがたどり着いた最も崇高な音楽だと個人的には思っている。

スキッズの後、リチャード・ジョブソンはマルグリット・デュラスをモチーフにした詩の朗読をやったりファッション・モデルをしたり、スキッズ時代とはかけ離れた事をやっていたが80年代半ばにラッセル・ウェッブ、元マガジンの二人と共にアーモリィ・ショウというバンドを始めた。当時人気だったビッグ・カントリーに対するリチャード・ジョブソンからの回答、という図式を期待してたんだがこれはスキッズともマガジンとも違ったスケールの大きい哀愁ネオサイケというような音楽だった。やっぱりたぶん全然売れなかったと思える。

その後、スキッズやリチャード・ジョブソンの名前も忘れるような激動の日々を送っていたROCKHURRAHだった(大げさ)が、今から数年前、そのリチャード・ジョブソンが何と映画監督(TV映画?)となっているらしいという話を知った。詳しい筋は全く知らないがスキンヘッズの若者の暴力的な青春を描いたという「Sixteen Years of Alcohol 」などと聞くとこれは是非観てみたい作品ではあるが、これ日本で出てるのか?
まだ調べてないんだが、昔大好きだったヴォーカリストが映画の世界に転職ってありそうでなさそうな出来事だな。パンク出身の人が案外したたかに今でも生きてるのを知ると励みにもなる。

今回は好きなダジャレも控え非常にマジメに書いてるけど、ROCKHURRAHもそろそろ脱・零細レコード屋となるような転機が欲しいもんだ。80年代ニュー・ウェイブが再び大流行とかしてくれないもんかねぇ。

【コンストラクテッド・フォトをSNAKEPIPEが制作。】

SNAKEPIPE WROTE:

今回は好き好きアーツとして日本を代表する写真家・東松照明氏を取り上げたいと思う。
とは言っても東松照明写真論として何冊も本が出ているので感想、のような書き方が無難だろう。

東松照明氏を知ったのは随分前のことだ。
以前にも書いたことであるが、SNAKEPIPEの父親は写真家である。
そして父親が東松照明氏の大ファンだったのである。
父親がいつもカバンの中に入れている写真がある。
取り出すと嬉しそうに顔をほころばせる。
それは東松照明氏と父親が一緒に写ったスナップ写真である。
先日のHELL-RACERとの記念写真に嬉々としているSNAKPIPEと同じように、父親にとってのアイドルは東松氏のようだ。
恐らく東松氏の偉業と実物とを知らない人は、「誰この人?」と中年男性二人が写った写真を怪訝に思うことだろう。
そう、東松氏は偉業を成し遂げた写真家、父親から見れば神様的な存在なのである。
実際にそのことに気付いたのはSNAKEPIPE自身が写真を撮り始めてからのこと。
どんな世界でも同じだろうけれど、その道に踏み込まないと「良し悪し」や「すごい!」の基準が解り辛いからだ。

東松照明氏の簡単な略歴を書いてみよう。(Wikipediaを参照)

1930年 愛知県名古屋市生まれ
1954年 愛知大学法経済学部経済学科卒業
「岩波写真文庫」のカメラマンスタッフになる
1956年 フリーとなる
1958年 日本写真批評家協会新人賞受賞
1959年 奈良原一高、細江英公らと写真家集団「VIVO」設立
(東松氏が「イネ」を集団名に考えていた話は有名である)
1961年 「hiroshima-nagasaki document 1961」
(第5回日本写真批評家協会作家賞)
1963年 アフガニスタンを取材
1972年 沖縄に移住
1974年 「New Japanese Photography」展
(ニューヨーク近代美術館)
荒木経惟らと「ワークショップ写真学校」を開講
1975年 写真集「太陽の鉛筆」で日本写真家協会年度賞
翌年芸術選奨文部大臣賞
1984年 「SHOMEI TOMATSU Japan 1952-1981」展
(ウィーン近代美術館など)
1992年 「SAKURA +PLASTICS」展(メトロポリタン美術館)
1995年 紫綬褒章受章
1998年 長崎に移住
1999年  「日本列島クロニクル―東松照明の50年」展
(東京都写真美術館)日本芸術大賞受賞
2000年 「長崎マンダラ展」(長崎県立美術博物館)
2002年 「東松照明展 沖縄マンダラ」(浦添市美術館)
2003年 「東松照明の写真 1972-2002」展
(京都国立近代美術館)
2004年 「Skin of the Nation」展
(ワシントン、サンフランシスコを巡回)
2006年 「愛知曼陀羅-東松照明の原風景」展
(愛知県美術館)
2007年 「東松照明:Tokyo曼陀羅」展(東京都写真美術館)

SNAKEPIPEが観に行った写真展が1999年の「東松照明の50年」展である。
この展覧会は「50年」と銘打ってあるだけに観ごたえ充分!
こうして全体像をみせてもらわないと、同じ写真家が撮った写真だとは分からないほどに多様なシリーズが展開されていた。

東松氏はいくつもの顔を持つ写真家なのである。
それぞれのテーマについて書いてみよう。

ドキュメンタリー写真として一番有名なのは「長崎」だろう。
戦争の傷跡を刻名に、冷静な目で描写している写真群。
原爆が落ちてから16年経った1961年から撮影を開始した、とのことであるが、文章にはできない写真が雄弁に長崎を伝える。
あまりにも有名な止まった時計の写真や溶解した瓶の写真は言いようもない独特の雰囲気を出している。
他には「チューインガムとチョコレート」の横須賀や「太陽の鉛筆」の沖縄、といった地名シリーズがある。
どのシリーズも長崎と同じように冷静でシャープな視線で事象を追いかけている。

アート系写真と呼びたい写真群もある。
海に流れついた漂流物を撮影した「プラスチックス」。
電子部品を自然物と混ぜて撮影したコンストラクテッド・フォト「ニュー・ワールド・マップ」や「キャラクターP・終の住処」もある。
「アスファルト」「廃園」「ゴールデンマッシュルーム」などはまるで実験映像のような感じ。
これらはすべて構図、色彩共にバッチリの素晴らしい仕上がり!
コマーシャル・フォトの先駆けとも言えるだろう。
悔しいくらい真似たくなるようなカッコいい写真ばかりである。

ネイチャーフォト、と言ってもいいシリーズもある。
長崎の諫早湾を撮った「ブリージングアース」。
千葉、和歌山、静岡などの岩場を写した「バイオ・バラエティ」。
岩場、とタイトルになければ宇宙写真のように見えてしまう不思議な写真群である。
東松氏の手にかかるとネイチャーフォトもまた違った趣きになってしまう。
非常にカッコいい。
これもまた真似たくなる写真だなあ。(笑)

ここまで顔を使い分け雰囲気を出すことができる写真家はそうそういない。
東松氏はバランス感覚、美的感覚共に非常に優れてるんだなあ、と感心。
そしてこれだけ多くの人物写真を撮れるのは、人格的にもバランスがいいからだと推測できる。
沖縄の人を撮るのに実際移り住み人々に慣れ親しんでから撮影を始めた、というエピソードを聞いたこともある。
ものすごい情熱!
意思の強さ!
うーん、3拍子どころか7拍子以上揃っちゃうんじゃないかね?(笑)

SNAKEPIPEが写真を撮り始めてしばらく経ってのこと。
今からもう10年以上は前のことだ。
その当時東松氏は千葉県の上総一ノ宮に住んでいたのである。
「東松さんのところに遊びに行って、ついでに写真を観てもらう?」
なんてアイデアを父親が口にしたことがあった。
そ、そんな!SNAKEPIPEみたいなド素人の写真を雲の上の写真家の方に観て頂くなんて恐れ多いにも程がある!
しかも遊びに、なんて気軽には行かれない!
そんなの無理、無理!と即座に断ったSNAKEPIPE。
今となっては
「あの時、行く!と言っておけば良かったな」
と後悔している。
偉大な写真家に会える機会なんてそう多くはないからだ。
そしてきっと父親もSNAKEPIPEをダシにして、本当は自分が神様にお目にかかりたかったのに違いない、と。

御年78歳の東松氏、ずっと元気で新作発表をお願いしたいところである。
2007年に写真美術館で開催された「Tokyo曼荼羅」は行かれなかったけれど、次回の写真展には是非足を運びたいと思う。
きっとまた「こんな写真が撮りたい!」と悔しい思いをするんだろうな。(笑)