会田誠展~天才でごめんなさい~

【会田誠展:天才でごめんなさい トレイラー映像】

SNAKEPIPE WROTE:

どんな展覧会があるのかを検索している時に、森美術館にて会田誠展が開催されていることは知っていた。
だけどSNAKPIPEがモグリ(古い)だったため、実は会田誠というアーティストについては何も知らなかったんだよね。
美術館HPにある会田誠展の詳細を見ようとする前に出てくるのは、冒頭にも載せた水着姿の少女達の絵。
「スクール水着?ロリコン系?」
と思ってあまり興味を示さなかったのである。

「会田誠、観に行こうよ」
と長年来の友人Mから誘いがあったのは、それからしばらくしてからのことである。
「えっ、あのロリコンの?ちょっと好みと違うんじゃない?」
と誘いを断ろうとしていたSNAKEPIPEだったけれど、
「実際に観てから物を言おう」
とMの誘いに応じることを決断!
行って、観てから初めて感想が言えることになると思ってね。
ここらへんが最近少し変化してきたところ。
SNAKEPIPEも成長しているのだ。(笑)
そして年末に近い、夕方からは雨になる予報の寒い空を見ながら六本木に出かけたのである。

開催から少し時間が経過しているためか、普段ならもっと混雑している森美術館の客数はそれほど多くなかった。
できればじっくり時間をかけて作品と向き合って鑑賞したいと望んでいるSNAKEPIPEとMには好都合!
客が少なめ、というだけでは好都合とは言い切れないかな。
最近は作品解説をする音声ガイドサービスを利用する人が増えていて、通常の3倍近い時間を費やして鑑賞する人もいっぱいいる。
そういう観客をうまく避けながら鑑賞していく技は、いつの間にか身につけた。
誰だって自分の好きなように作品と対峙したいもんね?
あとは子連れの客も避けたいね。
本当に子供に観せて良い作品なのか、親が理解して連れてきてるのかなあ。
今回の会田誠展にも何組か子供連れを発見したけど、大丈夫なのかしらん?
それぞれのご家庭によって事情が違うだろうから、SNAKEPIPEがあれこれ言う問題じゃないけどね。(笑)

会場に入って一番初めに展示されていたのが「切腹女子高生」(2002年)である。
まさにタイトル通りに、切腹する女子高生を描いているもの。
内臓出てるわ、首はチョンパされてるわで「一番初めからこれか!」とちょっと驚いてしまう。
制服姿に日本刀と言うとタランティーノ監督の「キル・ビル」はもちろんのこと、タランティーノに影響を与えた「BLOOD THE LAST VAMPIRE」を思い浮かべるよね。
ちなみに「キル・ビル」は2003年公開、「BLOOD THE LAST VAMPIRE」は2000年とのこと。
もしかしたら会田誠氏もプロダクションIGのファンなのかも?(笑)
まるでビックリマンチョコのシールのようにキラキラした仕上がりは、日本古来からの責任の取り方=切腹という重さや覚悟を全く感じさせない。
このままステッカーにでもなりそうな明るい雰囲気こそが作品の狙いなんだろうね。
他にも風俗店のピンクチラシを一面に貼り付けた上に桜を描いた作品や、畑で育ったルイ・ヴィトンのバッグを「今年も豊作じゃー!」と農夫が掘り起こしてるような油絵などがあり、「パロディの人?」と思いながら歩を進める。

会田誠という美術家を評する場合に「現代美術界の奇才」や 「奇想天外」と共に「タブー」という単語も加わることが多いようだ。
作品を途中まで鑑賞していくうちに
「斜めから物を見る人」
「シニカルでブラックな笑い」
という感想を持ち始め、どんどん興味が湧いてくる。
こんなこと言ってもいいの?こんなことやっていいの?というような禁忌に触れるような作品まで登場する。
「18禁部屋」まで用意されているとはびっくり!
DVDレンタルショップの「アダルトコーナー」みたいだね。
入り口がカーテンになってるところも似てるかも。(笑)

「18禁部屋」には更にキワドイ作品が展示されていた。
とてもキレイな仕上がりの日本画と思いきや、描かれているのは手足を切断され首輪をされた全裸少女達を描いた「犬シリーズ」である。
「家畜人ヤプー」「孤島の鬼」にも登場した奇形人間の製造や永井豪の「バイオレンスジャック」を彷彿とさせるモチーフ。
確かこの手の「人間犬」は石井聰互だったか三池崇史の映画にも出てきたのを思い出す。
美少女を手に入れたい、ペットみたいに飼ってみたいという密かな願望は、絶対に口にしてはいけないし、やってはいけないタブーだろう。
少女のヌードだけでも禁止事項だしね。
それを堂々と描き、展示してしまうとは!
「18禁部屋」には他にも少女を食材に見立てた「食用人造少女・美味ちゃん」シリーズや、 「美少女」とだけ書かれた壁に向かって、全裸でひたすら自慰行為を続ける作者を撮影したビデオなども作品として展示されていてエロとグロが盛りだくさん!
ジョン・ウォーターズの「モンドトラッショ」を彷彿とさせる写真もあったね。
ウォーターズは巨大ザリガニだったけどね!(笑)
一応カーテンで仕切りはされていたにしても、これらの作品を含めた展示にGOサインを出した森美術館の決断に拍手を贈ろう!(笑)

会田誠の作品には屏風絵が多いな、と思った。
もちろん「いわゆる日本の伝統的な屏風絵」とは全く違う。
本来なら鈴虫だったり、セミやカエルを描くところをゴキブリにする。
牡丹や菊を描くところを雑草にしてみる。
上の作品は「電信柱、カラス、その他」(2012年)で、タイトルそのままに電信柱とカラスを描いた作品である。
ブログ内では見えないけれど、左のカラスはセーラー服の一部を、真ん中のカラスは人間の指をくわえていて、不吉な予感を孕んでいる。
この屏風、欲しいなー!家に飾りたいなー!(笑)
SNAKEPIPEが今回の展覧会で一番気に入った作品である。

「自分のオリジナルタッチがない、一種のパロディ的な作家」と作者本人が語るように、作品のほとんどがパロディといって良いだろう。
前述したように伝統的な日本画は題材にしなかったであろうモチーフを描く。
巻物には2チャンネルからの転用文を、意味ありげな達筆で記す。(顔文字までご丁寧に縦書になっていた!)
現代アートにありがちな「ふざけて作ってない?」と聞きたくなるような意味不明の立体作品に似た作品を作る。
これもまた現代アートでお馴染みの「結局なにが言いたいの?」と訳が解らないまま、途中で鑑賞するのをやめるビデオ作品風の映像を撮る。
アートを知らない人が鑑賞しても面白いけれど、知っている人ならばその「ヒネり」に思わずニヤリとするだろうね。

「これはダメです」という社会的な規制やルールに対抗することで成り立っている作品が多い点が特徴でもあり、ちょっと弱い印象を受ける。
元となる常識や基準が作品着想の出発点だからだ。
それが作者の言う「オリジナルタッチがない」ということなんだろうけど。
時代と共に社会の基準やルールは変わることってあるよね。
10年後、20年後にも、これらの作品は「シニカルでブラックな笑い」を持って鑑賞することができるのだろうか?
益々規制が厳しくなって、作品展示そのものが不可能なんてこともあるかもしれないよね。
実際今は手に入らなくなってしまった本などもあるくらいだから。

森美術館のトレイラーの中にも出てくるビデオ作品「日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男からのビデオ」(2005年)では会田誠自身がビン・ラディンに扮して片言の日本語を喋っている。
ビン・ラディンに似ていると言われたことから、おフザケで作ったビデオみたいだけど、本当に良く似ていて笑ってしまう。
東京藝術大学美術学部絵画油画専攻卒業、東京藝術大学大学院美術研究科修了という華々しい肩書きを持つ会田誠。
ビデオの中の偽ビン・ラディンではなく、美術界の過激派としてこれからもブラック・ジョークで笑わせて欲しいと思う。
そしてパロディだけではない、エリートならではの大真面目な作品も鑑賞してみたいとも思うのだ。
過激派でエリートな会田誠がパロディをパロディに仕上げたら巡り巡って真面目になってしまった、なんてパラドックスを観てみたいね!(笑)

2013年元旦

【2013年の年賀状】

SNAKEPIPE WROTE:

あけましておめでとうございます!
2012年最後のブログにも書いたように、あんまり正月気分になっていないけどね。(笑)
そして毎年恒例の年賀状も、またまた全然年賀状っぽくなく制作してみたよ!
画像の周りが白くなっているのは、ミスではなくてポストカード仕立てにしているため。
そしてカード内に買いてある文字はキリル文字ね。
2013~と続いている部分はROCKHURRAH RECORDSをキリル文字のアルファベットに当てはめて書いたものなので、ロシア人でも解らないかな。(笑)

今回は一応テーマのようなものは設定していたんだけど、その設定からは逸脱しているので当初の計画については内緒。
ウキウキとお散歩に出かけようとする、バタフライ・ヘッドの謎の生物ということだけで良いか?
ROCKHURRAHは「お蝶夫人」と勝手に命名していたらしいよ。(笑)

「ああ、あの二人は相変わらず生きてるのね」
と感じて頂ければ良いな、と思っている。
それがROCKHURRAHとSNAKEPIPEが年賀状を作って、お送りする理由だからね。

相変わらずに、健康で一年を過ごせますように!
欲を言えば、2012年よりも良い年にしたいな、とも願っている。

いつもROCKHURRAHブログを読んで下さっている皆様!
2013年もROCKHURRAHとSNAKEPIPEは、力を合わせてブログの更新を続けていくことをここに誓います!(大げさ)
どうぞ今年もよろしくお願い申し上げます!

ベン・シャーン展 —線の魔術師—

【埼玉県立近代美術館入り口にあった公園前の看板を撮影。光が良い感じ!】

SNAKEPIPE WROTE:

現在埼玉県立近代美術館で「ベン・シャーン展 線の魔術師」が開催されている。 ベン・シャーンと聞いて一体何をやっていた人なのか即答できる人はどれくらいいるだろうか。
例えばSNAKEPIPEだったら一番初めに思い浮かべるのは写真家としてのベン・シャーンである。
次に画家、と答えると思う。
高校の美術の教科書に載っていた絵を未だに覚えているからね。(笑)
この回答とは違うことを答える人もいるだろう。
ベン・シャーンは単なる画家としてだけではなく壁画、ポスター、挿絵、写真などグラフィックアートのあらゆる分野を手がけたマルチアーティストだからね。
戦争、貧困、差別などの社会派リアリズムをテーマにしている点がベン・シャーン最大の特徴なんだよね。

では簡単にベン・シャーンの経歴について書いてみようか。
1898年リトアニア生まれのユダヤ人。
迫害を恐れ、8歳の時に家族と共にニューヨークに移住。
石版画職人として生計を立てながら、美術学校や生物学などを学ぶ。
30歳の頃から労働者や事件をテーマにした絵を描き始める。
1935年から38年にかけて、再入植局(RA)と農業安定局(FSA)が行ったプロジェクトに写真家として参加する。
1942年から戦時情報局グラフィック部門(OWI)、1945年からは産業別労働組合グラフィック・アート部門(CIO-PAC)に所属し、ポスターを制作。
1969年に死去。

今回の展覧会の副題が「線の魔術師」だったのと、美術館のHPに載っていた紹介文の中に
「初公開の絵画・ドローイングを含むおよそ300点によって、ベン・シャーンの魅力を紹介していきます」
と書いてあったので、もしかしたらドローイングが中心の展覧会なのかも、とある程度の予想はしていたんだけどね。
それでも行ってみないと判らないから、と大雨の中ROCKHURRAHと二人で埼玉まで出かけたのである。

実はSNAKEPIPEが埼玉県に足を踏み入れるのはこれが2度目。
1度目は確か20歳くらいの頃にバイトで行ったことあるんだよね。
どうやら2007年に閉店してるみたいだけど、丸井所沢店に!
あの時は遠かったなー!(笑)
ROCKHURRAHは埼玉には今まで一度も縁がなかったと言う。
今回の埼玉県立近代美術館は「北浦和」という京浜東北線の駅から徒歩3分とのこと。
そこまで遠くはないかな?と軽い気持ちで出かけたけれど、やっぱり埼玉は侮れないね。
どうやら最高気温が千葉や東京とは違っているらしく、埼玉着いた途端に寒くてガタガタ震えてしまったほど!
「夏の最高気温も埼玉はいつでも2℃くらい高かったよね」
「きっと冬は2℃低いんだろうね」
などと固まりかけた唇をなんとか動かし、会話するROCKHURRAHとSNAKEPIPE。(大げさ)
何かお腹に温かい物を入れないと凍えてしまう、とまずは腹ごしらえ。
何故だか一人で来店する女性客ばかりのイタリアン・レストランでホッと一息。
都内でも、ここまで一人客ばかりって珍しいような気がする。
なんでだろうね?謎だな。

美術館は北浦和公園の中にあるので、公園を散歩しながら向かう。
このシチュエーション、木場にある現代美術館と同じ構造だよね。
あっちはMOMA、こっちはMOMAS?
うりゃ、思った通りにThe Museum Of Modern Art, Saitamaだったよ。
だからMOMAに付け足してSがあるんだね。ダサっ…。(笑)
千葉にあったらMOMACなのか。うーん、良い勝負だね!

11月から開催されているためもあるのか、美術館内はそれほど混雑していない。
走り回るような子供もいなくて良いね。
1階の常設展を鑑賞した後、いよいよ2階のベン・シャーン展へ向かう。

前述したSNAKEPIPEの予想は的中してしまった。
今回の展覧会はドローイングが中心で、最も関心を持っていた写真はなんと3点のみの展示という残念な結果にガッカリ。
色々な分野の仕事をしてきたアーティストの場合には、こういうことがあり得るんだよね。
ある特定の分野に焦点を当てるような企画ね。
ROCKHURRAHも退屈だったようで、途中で眠くなる始末。
わざわざ遠出したのに、大変申し訳ないことをしてしまった。済みません。
ということで今回のブログは以前のジェームス・アンソール方式
「こんな絵や写真を鑑賞したかった」という特集にしてみたいと思う。
これからまた同じようなブログの時には、アンソール方式と呼ぶことにしよう。
うん、それが良い!(笑)

SNAKEPIPEが高校の美術の教科書で観たのはこの絵。
バルトロメオ・ヴァンゼッティとニコラ・サッコ(1931-1932)である。
1920年代にアメリカで偏見による冤罪疑惑により大問題となったサッコ・ヴァンゼッティ事件で死刑執行された2人を描いた作品である。
容疑者の2人がイタリア系の移民であり、徴兵を拒否したアナーキストだったという理由から、警察は明確な物的証拠がないまま二人を検挙、さらにニセの目撃者まででっち上げる始末。
知識人や当時のイタリア首相まで有罪判決に抗議するほど、社会的な大問題になった事件だったなんてことは女子高生だったSNAKEPIPEは知らなかった。
ただ、この絵のインパクトはずっと覚えていたんだよね。

インパクト、という点では今回の展示の中で最大級だったのはポスターだね。
上は「This is Nazi brutality」(これがナチスの残虐だ) という1942年の作品である。
ポスターはどれも主題がはっきりしていて、ズバッと大きく描いているのが特徴的である。
ポスター本来の目的を果たしながらも、アート的である点が重要だね。

ポスターには採用されていなかったけれど、ベン・シャーンの作品でもうひとつ気になったのはフォント。
絵本や挿絵などの作品もたくさん制作しているベン・シャーン。
解説には自身の子供のために作ったと書いてあり、優しい作風に納得する。
左の作品はちょっと小さくて解り難いかもしれないけれど、独特のフォントが採用されている。
リンチ・フォントの時と同じようにシャーン・フォントと名付けたくなるね。(笑)
どうやら石版画職人だった頃に、レタリングの技術を習得したらしい。
確かにこの字体は素人じゃないよね。
今回の展覧会での主要な展示であるドローイングには、最小限の線だけでそっくりな人物画を描き切っている作品が多くあり、その見事さに驚かされた。
なるほど、展覧会の副題が線の魔術師なのもうなずけるね!

今回の展覧会には3枚しか展示されていなかったベン・シャーンの写真。
こんな作品群が観たかったー!という4枚を選んでみたよ。
1935年から1938年にかけて撮りためた写真はおよそ6000枚とのこと。
再入植局と農業安定局のプロジェクトによる撮影ということで、人物を中心に撮られtレいることが多いみたい。

恐らくSNAKEPIPEが選んだ上の写真は街中なので、ベン・シャーンの個人的な趣味のための写真なのかもしれないけどね?
どの写真を観ても、対象と写真家の距離が近い。
相手が警戒しないで被写体となっていることが判るので、ベン・シャーンはコミュニティやその街に同化して撮影を行なっていたんだろうね。
ドキュメンタリー・フォトとしても、スナップ写真としても優れた写真群だと思う。
写真展があったら観たいなー!写真集でも良いな!(笑)

ベン・シャーンは自分で撮影した写真を元にして、絵を描いていたようだ。
人物を描く際にも使用していたみたいだね。
上の作品「Handball」(1939年)も極めて写真的な絵画だよね。
いや、もう写真そのものと言って良いんじゃないかな?
恐らく写真で鑑賞しても充分カッコ良い作品だったと思うよ。
そう、ベン・シャーンは社会派に目覚める前から、まるで写真のような絵を描いていた。
絵の人なら中心を主題だけに置くような場合でも、ベン・シャーンはまるで広角レンズを覗いた時のような構図にしているのだ。
きっと写真家的な目を持った画家だったからこそ、グラフィックも手がけたマルチアーティストに成り得たんだろうなあ。

日本のリアリズムや社会派などと呼ばれるような、人間の苦悩や時事問題を扱うような文学、写真、映画、その他諸々の表現世界には、ほとんど興味がない。
今でも「しわが刻まれた老人の顔」や「農村で働く人達」をモノクロームで撮影し、「これぞリアリズム!」と叫ぶ人もいるだろう。
その手法が古いとか新しいとか、良いとか悪いの問題ではなく、単なるSNAKEPIPEの好みだからね。
それなのに何故だろう、1920年代や1930年代のアメリカやヨーロッパの写真となると、「カッコ良い!」と思い、更には「懐かしい」とまで思ってしまう。
これは以前SNAKEPIPE MUSEUMでStephen Shore について書いた時にも似たようなことを言ってるな。
一言で言ってしまうと「憧れ」になるのかもしれないね。

さて、今年は今回のブログが最終回ということになるんだね。
夏が長くて暑い日々が続いていたら、急に寒くなって。
あんまり師走だ、クリスマスだ、と感じないまま正月とは!トホホ。

今年もブログを一回も欠かさずに書き連ねることができて良かった!
来年もまたROCKHURRAHと二人で「次のブログはどうしようか?」と頭を抱えながら、何かしらの記事を書いていきたいと思っている。
ROCKHURRAHブログ・ファンの皆様!来年もよろしくお願いいたします。
どうぞ良いお年を!

時に忘れられた人々【16】エレポップ2

20121223_top.jpg【SNAKEPIPEがテクノを画像で表現。うーん、80年代ですなあ】

ROCKHURRAH WROTE:

何と3年も前に書いた記事のパート2を書くとは本人も全然思ってなかったよ。しかもよりによって最近の人にはよくわからんであろうエレポップを再び選ぶとは。「もっと他に書くことあるだろうが」と言われてしまいそうだけど、今日書けそうなのはこれくらいしか思いつかない。「書きたい」じゃなくて「これくらいしか書けない」という点ですでに悲壮だなあ。

カタカナで書くからわかりにくいけどエレポップとはElectronics Popsの事で、1980年代にはテクノ・ポップという呼び方の方がポピュラーだったかな?シンセ・ポップなどとも呼ばれているな。 まあ名称などはどうでもいいんだが、80年代ニュー・ウェイブの超メジャーどころが集結していて、花形ジャンルなのは間違いなかった。

ROCKHURRAHは前に何回か書いた事はあったが1990年代にMacを使い始めて、何かに取り憑かれたように自分一人で音楽を作っていた時期があった。まだ宅録の技術や知識、機材などがなかったのでかなり苦労したもんだが、その時にやっていたのが80年代ニュー・ウェイブの純粋培養と言えるような時代錯誤の音楽だった。自分では気に入っていても冷静に聴けば単調だったりパクリだったり。音楽を作り他の人に何か良いところを認めてもらうのは大変だとシロウトながら思ったものだ。

まあそんな昔話は置いといて(しかもこの昔話が何も今回の伏線になっていない)このブログでは今年最後の出番らしい。 そろそろ初めてみようか。

Human League / Don’t You Want Me

前回、と言っても三年も前だが、その時にパイオニアと言うべきバンド達を書いてるから今回は軽薄もB級もあり、よりエレポップの本質に迫れるかもね。
ヒューマン・リーグは1981年のこの曲「愛の残り火」が最も有名で大ヒットもしたが、デビュー当時はもう少し実験的な面もあったし、同郷シェフィールド出身のキャバレー・ヴォルテールを聴きやすくしたような紹介のされ方をしていた。
プラスティック・ケースの中の赤ん坊というようなSFっぽいジャケットもインパクトがあったな。
大先輩クラフトワークのように無機質な演奏、無機質な声という図式ではなく、エレクトロニクスを多用してても人間性重視という方向性のバンドだった。ビル・ネルソンあたりと似たテーマだな。  
しかしデビューした79年頃はヴォーカルも宅八郎風で、とてもこんなメジャー路線、あるいはニュー・ロマンティック風味に走るとは想像もしなかったようなバンドだった。ウルトラヴォックスも最初はそうだったな。 個人的な感想を言うならば、カッコイイというよりは粘着質でいやらしそうなこの風貌でよくも大ヒットしたもんだ。 まあバカにした書き方はしたもののROCKHURRAHはこういう路線も同時に愛するよ。哀愁を帯びたメロディで壮大に歌い上げるエレポップ歌謡、これはもう殿堂入りの名曲と評価するしかない。

Fiat Lux / Blue Emotion

80年代のニュー・ウェイブに通暁した人でもなかなかこのバンド名は出て来ないだろう。だからと言ってマニアックなわけでもなく、メジャー志向でポップでもプラスアルファの華とかチャンスがなければ、なかなか世に出る事が出来ないという見本だね。
このフィアット・ルクスは英国ヨークシャーのバンドで、ROCKHURRAHもある縁故がなければ永遠に彼らを知る事はなかったろう。
元ビー・バップ・デラックスのビル・ネルソンがソロとなる直前にごく短い間だけやっていたバンド、ビル・ネルソンズ・レッド・ノイズ。ここに加入していたサックス奏者がビル・ネルソンの実弟、イアン・ネルソンだ。その彼がレッド・ノイズの後に加入したのがこのフィアット・ルクスだったのだ。と言ってもこのバンドの中心人物なわけではなく、三人組の一番目立たない一人がイアンだった、トホホ。

弟がサックス奏者と言えば日本ではチェッカーズを思い出すが、レッド・ノイズはデジタル・パンクの元祖的存在。そんな中でサックスという楽器が違和感なく融合出来てただけでも斬新な出来事だと思うよ。
フィアット・ルクスは低音のヴォーカルが魅力で最初はビル・ネルソンが設立したコクトー・レーベルの二大金字塔となる予定だったが 、初代金字塔のア・フロック・オブ・シーガルズに続きこのフィアット・ルクスもメジャー行きで、結局ビル・ネルソンは見出しただけで終わるという不運なスカウトマンとなってしまった。実際はそんなことないんだろうけど、この辺は想像も混じっております。

彼らがヒットしたのかはよく知らないけど、ちゃんとしたプロモ映像が残ってるし曲調などもいかにもメジャーな雰囲気、いつまでも「元ビー・バップ・デラックス」と過去の威光だけで語られるビル・ネルソン本人よりは一時的に売れたのかもね。 問題のイアン・ネルソンはこのバンドでは主人公ではなかったので映像後半に少し出てる程度だけど、このバンドもサックスが効果的に使われていて、日本ではほぼ無名バンドだったのがもったいないくらい。彼は2006年に亡くなっているが、ROCKHURRAHの記憶にはいつまでも残っているよ。

Soft Cell / Taited Love

DAFやペット・ショップ・ボーイズなどと同じく、男二人のユニットと言えばゲイ疑惑がつきものだが、このソフト・セルも常にそういう点で語られてきたな。マーク・アーモンドはインパクトのある退廃的美少年(?)という感じで音楽雑誌の表紙を飾って来たが、粘着質のいやらしい声を武器に(ん?ヒューマン・リーグの項でも同じ事書いたな)この「汚れなき愛」で大ヒットしたのが81年。サム・ビザール・レーベルの中心的な存在となった。
マーク・ボランが死亡した時に車を運転していた愛人、という事で知られている黒人歌手のグロリア・ジョーンズの曲をカヴァーして、世界的にこの名曲を知らしめた功績は大きい。 その後も色々なミュージシャンがカヴァーしているから時代を超えて知ってる人も多いはず。ネオ・ロカの世界ではデイヴ・フィリップスが歌ってたヴァージョンが有名だが、そっちの方がずっと知られてないか。

しかし男二人のユニットと言えば片方がヴォーカルで目立ち、もう一人は音楽的リーダーという名目で地味な打ち込みとかやってて不公平感たっぷりの気がするが、実際はどうなんだろうね。この目立たない方の三人でうなずきトリオみたいな事をやろうという話はなかったのか?

Minny Pops / Dolphin Spurt

80年代によく知られたインディーズ・レーベルとして、ジョイ・ディヴィジョンで有名になったマンチェスターのファクトリー・レーベルがあった。このレーベルはユニークで何にでもレーベルの型番をつけるというのが面白かった。自分たちの経営しているクラブに居付いた猫にもFAC-191などと型番が付いてたり、設立者が死去した時に棺桶にFAC-501とか付いてたり。その辺の遊び心に影響を受けてROCKHURRAHのオリジナル・ブランド、BINARY ARMYも作ったものに型番を入れていたのが懐かしい。現在はほとんどやってないけどなあ(笑)。

そのファクトリーがイギリス以外に進出していわゆるベネルクス三国のベルギー、オランダ、ルクセンブルクを拠点に展開したのがファクトリー・ベネルクスだった。
ベルギーにはクレプスキュールというニュー・ウェイブのレーベルがあって、日本では新星堂が展開してた事からそこそこ知名度があったが、このファクトリー・ベネルクスから発展したものだったかな。設立の経緯はイアン・カーティスの愛人絡みというような記憶があった。個人的に大忙しでじっくり調べる時間がなかったから間違ってたらごめん。

ミニー・ポップスはオランダのバンドでそのファクトリー・ベネルクスを拠点に活動していた(元々はプルーレックスというレーベルから出してたはず)が、日本ではやはりほとんど無名に近い。
ジョイ・ディヴィジョンもどきのフォロワーが何とか自分なりの個性を出そうと奮闘していた時代。彼らも決定的に地味というマイナス要素を払拭するべく試行錯誤していた・・・と書きたいところだけど、何だかあまり努力した形跡もなく、地味でちょっと変、ダサいけど取りあえずニュー・ウェイブっぽさは感じられる独特の路線を歩んでいたようだ。何しろ地味で日本のメディアで取り上げられる事も稀なバンドだから、見てきたようにはとても書けまっせん。

ROCKHURRAHも彼らのレコードを持っていたが抑揚がなくてこれといった特徴がない。中で一番まともだった曲を義理のように自分のベスト盤に録音してたのを思い出す(笑)。
この映像や音楽を聴く感じではいわゆるエレポップとは異質で、ドイツのニュー・ウェイブに通じる無機質さ。電子楽器と言うよりはギターとかドラムなどの楽器をテクノっぽく使っている点が新鮮かな。

年末の色々な準備とかあって忙しい中、よくここまで書いたと自画自賛出来るけど、今回はちょっと少なめで許してね。やっぱりまた今回のも書ききれてないから、また同じネタでやるだろうな。「続きはWebで」などと言えないのが辛いな。 ではまた来年会いましょう。