80年代世界一周 羅甸亞米利加編

【羅甸亞米利加もいよいよ大詰め。今回はその他の地域に焦点を当ててみたよ】

ROCKHURRAH WROTE:

ROCKHURRAHが書く2022年最初のブログ記事・・・などという書き出しで始めようと思ってたが、何と去年はわずか3回しかブログを書いてなかった事に気づいた。

他の事をやっててものすごく多忙だったというわけでもなくて、こりゃサボりすぎだよ、と反省。
今年はもう少し書けるように頑張らないとね。

ROCKHURRAHが企画したシリーズ記事は、どれもこれも忘れ去られたのばかりなんだけど、久々に書こうと選んだのが「80年代世界一周」というタイトルで書いていたもの。
久々だからまたしつこく説明するならば、パンクやニュー・ウェイブが盛んだったイギリスやアメリカなどのロック主要国以外の80年代バンドはどういう状況だったのか、個人的な好き嫌いのみで書いてみようという企画だった。

最後に書いたのが2020年の11月だから、1年以上も続きを書いてなかった事になるよ。

で、最後の方で書いてたのがブラジルとアルゼンチン。
南米だけで大まかに1回で書こうと思ってたのに、意外とバンドの層が厚くて個別の記事としたんだったな。

今回はその続きという事でその他の南米各国の80年代ニュー・ウェイブについて考察してみよう。
タイトルに書いた羅甸亞米利加というのはラテン・アメリカの事で、スペイン語やポルトガル語を主に公用語とする(要するにその辺が植民地としてた)南米あたりの国というわけ。
ラテンもアメリカももっとわかりやすい当て字があったはずだけど、どうしても一般的に普及してなさそうなのを選んでしまうのがROCKHURRAHの性(さが)なんだな。

南米編も3回目、ブラジルとアルゼンチンという大国をすでに書いてるが、その次に挙げるべきメジャーな国と言えばどこかな?
と考えた結果、次はどう考えても不便そうな縦長すぎる大国、チリにしてみよう。
漢字で書くと割と普通な智利という当て字だそうだが、人名でもありそう。

遠く離れた日本では「南米と言えばどこの国?」と聞かれてもパッと国名が思いつかない人もいるだろうし、ROCKHURRAHもこの国の事をロクに知りもしない。
SNAKEPIPEが大好きな映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキーの出身地だとか、好きな人も多いチリ・ワインとか、有名アウトドア・メーカー名にも使われたパタゴニアが南の方にあるとか、書いてて情けなくなるほどの貧困なイメージしかないよ。
異常なまでに縦長の領土を地図上で見ると、この国を旅するのは暑かったり寒かったり砂漠だったり大変な思いをしそうだな、と想像するよ。日本も十分に縦長だとは思うが。

大変遅ればせながら、だけど・・・いつの間にかようやく品薄状態じゃなくなったので、前々から欲しかった任天堂Switchを購入した。買うチャンスはあったんだろうが、手に入らない時に高い値段で買うのもなあ、という庶民的な理由で旬の時期は断念していたのだ。
早速遊んでいるのが「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」なんだが、行こうと思ってる場所の気候に合わせて毎回装備チェンジしないといけない。
前は草切ってたら貯まってたお金もシビアになったし、朝昼夜に加えて雨の日、雷雨の日などという細かいところが変にリアルになったので、ウチでは賛否両論になりながらも夢中で各地を駆け回ってる日々だよ。
上に書いた「暑かったり寒かったり砂漠だったり大変な思いをしそうだな」という一文の間に「耐暑効果のある服はゲルドのこれで防寒の時はリト族のこっち」などとゼルダ関連の情報が頭をよぎった、というだけの話なんだけどね。

そんなチリを逞しく生きた80年代バンドがこれ、Los Prisionerosだ。
英語で言えばPrisoners、囚人という意味だと思うけど、スペイン語ではプリシオネイロとなるのか。やっぱり語感がいいねスペイン語、喋れはしないが大好きな言語だよ。
大都市サンティアゴ出身の彼らは1979年結成で84年くらいにレコード・デビューしたというから、チリでちゃんと英米のパンクやニュー・ウェイブに比べて「そこまで遅れてない」と感じさせる数少ないバンドのひとつだろう。
南米のバンドはパンクとか言ってても70〜80年代のリアルタイムでは自由な音楽活動すら出来ないような情勢の国(クーデター多発地域という印象がある)もあったろうからね。
チリもご多分に漏れず70年代に軍事クーデターがあって、その後の人々の暮らしがどうだったかROCKHURRAHは知らないが、Los Prisionerosの音楽はそういう暗い時代背景を笑い飛ばしてしまうような一見陽気なラテン・ミクスチャーな音楽をやっていて、したたかな生命力を感じるよ。

「Maldito Sudaca」は1987年に出たシングル曲でアルバム「 La Cultura De La Basura(ゴミの文化的利用法)」にも収録されている勢いのある曲。
スダカというのは支配層のスペインが南米人のことを侮蔑した言い方で呼ぶような言い回しで、Maldito Sudacaとなるとここでは書かないが大変バカにしたような汚い言い方になると思うよ。
まあどこの国にもよその民族をバカにしたり自虐的だったり、そういう言葉はあるけどね。
ちなみにこれ以降も勝手に日本語訳した邦題やバンド名を書いてゆくが、全て公式ではないんで誰も参考にしないように。

ビートルズを足蹴にする挑戦的なビデオも、いかにも南米的なチンピラの役どころにピッタリな三人組の表情がいいね。
金を貸したら絶対に返ってきそうにない面構えだな。
曲は同時期かちょっと後くらいに大人気だったフランスの多国籍バンド、マノ・ネグラや亜爾然丁編でも書いたソダ・ステレオのような雰囲気のエネルギッシュなパンク+ラテン・ミックスなもの。この国で人気だったのもよくわかるよ。

チリと言えばこれも名前の出てくるバンド、Emociones Clandestinas。
日本語に訳すと「秘密の感情」だそうで、変な邦題がついた大ヒット海外ドラマとかでありそうだね。
チリの中央、ビオビオ州出身のこのバンドは1987年に1枚アルバムを出しただけのようだが、チリのパンク・バンドとしてはパイオニア的存在らしい。

87年と言えばイギリスではニュー・ウェイブのようなロック的なものがネタ切れで沈静化、簡単に言えば下火になってきた時代で、マンチェスターあたりではロック的ドラムではなくダンスっぽいビートと融合したスタイルがブームになった頃かな。
後の時代のバンドはしばらくこういう路線が主流となって現在のロックにも受け継がれてる、そういう境目の音楽が登場し始めたのがこの時代だと言える。
ジョイ・ディヴィジョンあたりは79年当時にそういうリズムでやってたような気がするから、87年元祖説はイマイチ信憑性がないけどな。
アメリカではこの頃はカレッジ・チャートの「頭でっかち、聴けば普通」という音楽も相変わらず量産されてたけど、グランジやオルタナ系などと呼ばれるバンド達が来たるべき90年代に流行る、その夜明け前といった感じ。
ROCKHURRAHの個人的な感覚で言えば、80年代最初の頃の次はどんな新しい音楽が来るか?といった期待感が完全に薄れてきたような時代だったよ。

そういう世界的な音楽情勢を踏まえてこのEmociones Clandestinasを聴くと、1987年に女絶叫ヴォーカルのシンプルな曲をやってる古臭さは否めないね。
スペインのAlaska Y Los Pegamoidesあたりの雰囲気はあるものの、向こうの方がずっとヴィジュアルもキャラクターも際立ってたから小粒にもほどがあるよ。
Carmen Gloria Narváezという女性ヴォーカルのようだが、たぶんこのバンドのメイン・ヴォーカルではなく、彼女のいない男4人組の方がむしろ知られてるようだ。
いきなり主演女優がいなくなって今後の展開は大丈夫なのかね「秘密の感情」?え、違う?

次はメキシコの、と書こうとして南米地図を見たらメキシコは南米じゃなかったのをこの歳まで知らなかったよ。
が、英語じゃないしアメリカの一部と見なす人もいないし、大体南米の仲間と言って差し支えないかな。え、ダメ?

この国のニュー・ウェイブ事情を調べたら80年代には実にチープなものばかり出てきて逆にビックリした。
いかにもごつい男たちの入れ墨パンクとかありそうな雰囲気なのに、よりによって探したのがこの軽薄そうなバンド、Sizeだ。

メキシコ初のパンク・バンドとして1979年にデビューしたと言うから、他の南米パンクよりはだいぶ早くから活動してたことになるがあまりレコードも出せずに、リアルタイムでは本国以外ではほとんど知られてない存在だった模様。
ビデオの曲「Go-Go Girl」は日本盤の出ている「音の宇宙模型」というノイズやアヴァンギャルド系多数収録のコンピレーションに、なぜか収録されてるのがとっても不思議だよ。

ヴォーカルの見た目はサイコビリー風なのに曲は甘い50’s調で、演奏は80年代初期のテクノポップ(シンセをたくさん使ったエレポップではなく、ちょっとだけ使用なのがポイント)という感じの、まとまってないちぐはぐさに満ち溢れたこのバンド。
イギリスやアメリカでは全く通用しなさそうなところが逆に唯一の個性と言えるのかもね。

これまたメキシコのSyntoma(症状) というバンド。
日本の80年代アイドルを彷彿とさせる女性ヴォーカルと冴えない男たちという3人組で、上のSizeと同じように初期テクノポップをやってるんだけど、その初々しさ、拙さがツボにはまる人もいるだろう。
一般的に考えるメキシコっぽさは皆無だね。
これは日本に輸入されてたら意外と大人気バンドになれたかも、と思うよ。
ヤング・マーブル・ジャイアンツのテクノ版という感じかな。

ヴォーカルの子がキーボードの演奏までして合間にマイクを握り歌うという、失敗しやすいスタイルのこの曲「Subliminal 」は1983年の作で、それを考えるとアイドル風衣装も初期テクノポップも決して古臭くもなく、メキシコは他の南米諸国のバンドとかよりはずっと英米の影響(ついでに日本も)を受けやすかったんだろうな。

またまたメキシコのバンド。
エドガー・アラン・ポーの詩にも出てくる由緒ある名前、ウラルメ嬢を中心としたCasino Shanghaiだ。
南米ではないメキシコから3つもバンドを持ってくる段階で今回の羅甸亞米利加編でかなり苦戦してる事がわかるだろう。
その通り、生粋の南米ではあまり目ぼしいバンドがなかったんだよ。

バンド名も世界で通用しそうだし、例えばZEレコーズ(フランスとアメリカを二股にかけた80年代ニュー・ウェイブのレーベルがあった)でリジー・メルシエ・デクルーやクリスティーナあたりに続いていれば割といい線いってたのではないかと思うくらいのレベルだよ。
メキシコ国外に進出しなかったから、やってる音楽はメジャーっぽくても知名度は低いのが残念。

ウラルメ嬢は写真ではコケティッシュ美女っぽいがビデオではちょっと微妙な感じがするね。
メイクや衣装のせいで大人びた、というよりは年増に見えてしまう。
全体的にちょっと陰影のある曲調と歌い方に雰囲気があって、目指す方向性はよくわかるけど、売り出し方がちょっと下手だったなあと思ってしまうよ。

次はブラジルとアルゼンチンに挟まれた小国ウルグアイ。
国名は知っててもこの国に関する知識がまるでないし、失礼ながらどんな国なのか全く想像出来なかったが、実は南米では最も高い水準の暮らしっぷりが出来るプチブル(最近聞かない言葉だな)国家だという。
今調べて知った付け焼き刃の知識だが、国民の3人に1人は銃を所持してるデンジャラスな国らしいな。
首都はモンテビデオという何だかよくわからんがカッコいい地名で羨ましい。

関係ないが日本でもルーマニア・モンテビデオという意味不明の名前がついたバンドが90年代くらいに活躍してて、その頃、夜型の生活をしてたROCKHURRAHはTVが終わる深夜か明け方になぜかそのバンドのビデオが流れてたのを思い出したよ。
1曲も知らないバンドなのにそのバンド名だけを記憶してるという事はやはり名前のインパクトが強かったんだろうか。

国が豊かだと音楽や芸術に関する需要も高まるのかは全くわからないが、意外なことに今回の南米その他の国の中では最も英米にひけを取らないバンドが見つかったよ。
Los Estomagos (胃)というケッタイなバンド名のこの4人組は1983年頃から活動してたというから、ウルグアイのニュー・ウェイブではパイオニア的な存在だったんだろうな。

「Frio oscuro(寒い闇)」というこの曲は南米のバンドとしてはたぶん珍しい、ジョイ・ディヴィジョンやキリング・ジョークあたりを思わせる重低音ダークな曲調で、当時の英国から強い影響を受けた事を感じさせる。日本と似た温暖な気候だとウルグアイの旅ガイドには書いてあったけど、そういうのに関係なく心の寒さを歌いたくなる時もあるんだろう。
うーん、おざなりで他人事のコメントだったな。

さて、次は南米では最も北部に位置するベネズエラから。
これまた何のイメージも湧いてこない国で困ってしまうが、石油産出国として80年代前半くらいまでは割と裕福な国だったとのこと。
しかし原油の下落や政策の失敗で一気に落ち込んでしまい、ROCKHURRAHのような素人が南米に抱く漠然とした悪いイメージ通りの国になってしまったらしい。政情不安定とか貧困とか治安が悪いとかの負のイメージね。

そんな世界最悪の治安の悪さとまで言われるベネズエラで、したたかに生き残ってきたガールズ・バンドがこれ、Psh-Pshだ。
意味は、うーむ、わからぬ。プシュプシュでいいのかいな?
80年代初頭から活動してたようだがリアルタイムではレコードも出してなく、割と最近になって発掘音源みたいなのが出たに過ぎない幻のバンドみたいなもんだな。
写真で見ると割とケバい(最近言わない言葉だね)女3人組で、やっぱり治安の悪いところで活動するからにはこれくらいじゃないとナメられてしまうよね。

こんなバンドだから当然動画もなかったけど、ビデオは1983年の「Juego de computadora(コンピュータ・ゲーム)」。
音楽は割と暗めのシンプルなパンクで、声を荒げる事もなく淡々と歌い上げるクールな印象。
世界で通用するレベルとは思わないけど、南米という感じは全くしないな。

最後もベネズエラ。
首都カラカスで1981年に結成されたがレコード・デビューに苦労したタイプのようで、実際の活動は80年代後半というこのバンド、Sentimiento Muerto(死んだ感じ)だ。詩的な解釈が全く出来ないGoogle翻訳、ひどいな。

見た目だけは世界に通用しそうなレベルの男5人組で、ラテン系ニュー・ウェイブの中では売れ線狙いの正統派だと感じるよ。今回は売る気がなさそうなバンドが多かったからね。
パッと見た感じではラブ&ロケッツ(バウハウスからピーター・マーフィーを除いた3人組バンド)のハート・マークのモノマネか?というような似たトレードマークを売り物にしていたり、ヴィジュアル戦略にも長けたバンドのようだ。
南米ではバレるまい、と思っていたのかな。

「El Payaso(ピエロ)」は1989年発表の「Sin Sombra No Hay Luz(影なし光なし)」というアルバムに収録のもの。
曲の方はチョッパー・ベースが全編リズミカルに鳴り響くもので、達者に音楽慣れした実力のバンドだと感じる。
明らかにベネズエラ、あるいは南米諸国というよりはヨーロッパ進出を狙ったくらいの意気込みを感じるが、大成したという話も全く聞かないから、これまたメジャー路線政策に失敗したのかね。

以上、今回は駆け足でラテン・アメリカの80年代を紹介して失敗したかも知れないが、この企画自体は個人的にも興味あるから、また機会があったらまとめてみたいと思ってるよ。
一番欲しいのは時間だね。毎年、初詣の時は「時間に余裕が出来ますように」と祈願しているよ。

ではまた、Jajoechapeve(ジャジョエシャペベ)
※グアラニー語(南アメリカ先住民の言語)で「さようなら」

ニッチ用美術館 第7回

【夏っぽく暑苦しいタイトルバックにしてみました。鬱陶しいよう。】

ROCKHURRAH WROTE:

ここしばらくブログ執筆者(大げさ)としては全然登場しなかったROCKHURRAHだよ。
特に忙しかったわけでも病気だったわけでもなく、SNAKEPIPEがブログを書いてる横でただぼんやりしてただけ・・・うーん、相変わらず書いてて情けないな。

そう言えば連休前、ROCKHURRAHとSNAKEPIPEは二人して同じ会場、同じ時間で予約出来たのでコロナ・ワクチン接種に行ってきたよ。
区がやってる役所仕事だと思って、どうせ待たされたり不快になる事が多いと予想していたが、ヘタな病院よりもずっとシステマティックに手順が進み感心した。
看護師もスタッフも毎日数多くこなしてるからだろうが、熟練の極みでストレスがなかったのは良かった。
ちょっとでも様子が変だったらすぐに駆けつけて「大丈夫ですか?」と至れり尽くせり。
ここまで手厚い看護を受けた事ない人も多数だと思うから、感激する人もいるだろうな。

注射自体は痛くもなくあっという間に終わり、気分悪くなる事もなく「大したことなかったね」などと言いながら帰宅。
先にワクチンを打ったSNAKEPIPEの友人Mが色々な助言をしてくれたので予備知識はあったが、翌日から2日くらいは腕に筋肉痛のような痛みが出た。
よく言われるように腕が上がらないというほどはなかったけど、連休はどこも行かずダラダラ過ごして回復に努めたよ。
8月に2回目があるけど、その時の方が副反応が重いというから気をつけないとね。

久しぶりにブログを書く気にはなったけど何を書こうか迷ってたら「ニッチ用美術館」というSNAKEPIPEからのリクエストがあった。
そうだね、ROCKHURRAHが書いてるものの中では、アイデアとしては一番出来がいいシリーズ(自画自賛)だから。
では頑張って書いてみようか。

さて、毎回のように説明してる「ニッチ」とは生態的地位とかくぼみ、適所などの意味を持つけど、音楽とアートワークの隙間を埋めたいとROCKHURRAHが考え命名した企画というわけだ。
簡単に言えばレコード・ジャケットを展示して美術と音楽の両サイドから語ってゆくという素晴らしい企画なんだけど、キュレーターとしてのROCKHURRAHがB級なもので、いまだに人々を感動させられないでいるのが現状。

そして説明がしつこいがROCKHURRAH RECORDSは70年代のオリジナル・パンクと80年代ニュー・ウェイブしか語らないという、めったにない類いのレコード屋だから、展示物もその範疇にあるもの限定。
これ以外のものは語れないがよろしいか?(偉そう)

ROOM1 烏拉的米爾の美学

予備知識もなくこれを読める現代日本人はいないと思うが、烏拉的米爾と書いてウラジーミルと読むらしい。
ロシアの都市名を漢字表記してた時代にはこう書いていたんだろうけど、みんなスラスラ読めたのかな?
100%当て字だとはわかっていても、いちいちこういう字を当てはめようと考えた人がいたのがすごい事だと思うよ。こういうのを一日中考えるような仕事があったらしてみたいとさえ思える。

さて、その烏拉的米爾は人名としてもポピュラーでレーニンやプーチンもウラジーミルだそうだ。
人名の方は漢字表記するのかは不明だが。
ついでに、ROCKHURRAHはロシア人の名前をウラジーミルではなくてウラジミールと疑いもなく呼んでいたが、これはチェコ人とかの読み方で、ロシア的にはウラジーミルだという話。裏地見るではない。
知らなかったけど一ヶ月後には忘れていそうな豆知識だったな。

1910年くらいから1930年代頃まで盛んだったロシア・アヴァンギャルドという芸術運動、その中でも斜め直線や円形を大胆にあしらった構図や色使いの見事さで、ドイツのバウハウスと共にROCKHURRAHが大好きなジャンルなのがロシア構成主義だ。
これはROCKHURRAHもSNAKEPIPEも過去に何度も力説してるから、ROCKHURRAH RECORDSの基本ポリシーとなるデザインと言っても良い。

以前に銀座グラフィック・ギャラリーでアレクサンドル・ロトチェンコの企画展に感銘してからすでに10年近く。
それ以前からROCKHURRAHのスクリーンセーバーはずっとロシア構成主義のものを使っていたんだが、OSを新しいのに変えたら残念ながら使えなくなってしまった。
うーむ、それくらいずっと大好きなデザインだと言いたいだけで、数行も費やしてしまった。
ロシア構成主義の趣旨とは真逆のムダの多い文章だな。

ロトチェンコやリシツキーなどのポスターは有名だが、派手で斬新な構図を得意とするステンベルク兄弟も映画ポスターなどで活躍した素晴らしいアーティストだ。
色使いもとってもカッコいい。
そしてやっと烏拉的米爾につながったが、ウラジーミル(兄)とゲオルギー(弟)の二人でステンベルク兄弟だったというわけ。
兄弟でポスターを制作する分担は不明だが、初期の藤子不二雄みたいに合作してたのかね?

やっぱりパンクやニュー・ウェイブと一緒で、時代の波が一番きてる瞬間に人々が求めるものを提示して、華々しく活躍した者が寵児となる。
1920〜30年代のステンベルク兄弟がまさにそれだったんだろう。

弟の方は30年代にバイクで事故死、それ以降は目立った活動をしてないようだ。
ウラジーミルは弟の死を国家的な暗殺と信じ、後悔したまま(社会主義に反する芸術家弾圧が進んでいたソ連から亡命しなかったため)その後の人生を隠遁者のように送ったというような話。
本人がそう言ってるだけで真偽のほどは不明だけど、確かにそういう話はありそうだよね。

例えばメスキータもユダヤ人だったというだけでナチスによって殺されてしまったり、芸術でも何でも、やってる事が戦争や歪んだ社会体制によって踏みにじられる事に怒りを感じるよ。
今の時代でも何もかも自由な事なんてないし、多数のつまらん意見が個人を殺す事だっていくらでもある。

思わずシリアスになってしまったが、話を進めよう。
そんなステンベルク兄弟の作品をジャケットとして使用したのがザ・サウンドの1stアルバム「Jeopardy」だ。

このジャケットは1926年のソヴィエト無声映画「The Crime of Shirvanskaya」のポスターを使ったものだが、オリジナルのポスターはカラーだったのをなぜかモノクロのジャケットにしている。映画はもちろんモノクロなので別に違和感はないんだけど。
この映画、邦題が一切見当たらないので日本で公開された事もないんだろうけど、そして何者なのかは不明だが、シルヴァンスカヤなる人物が主役を務める映画が何本かあった模様。
シリーズ化されてたのかな?

ザ・サウンドは1980年代前半、ネオ・サイケの時代に活躍したバンドで、初期はエコー&ザ・バニーメンと同じコロヴァ・レーベルよりレコードを出していたな。
何か覚えがあるなと思ってたら去年の記事、「俺たちダーク村」で書いてたのを思い出した。

エイドリアン・ボーランドというちょっとぽっちゃり顔のソングライターが中心人物だったが、パンクの時代にはアウトサイダーズ、初期ニュー・ウェイブの時代にはセカンド・レイヤーというバンドで活躍していた。そのどちらでも才能を発揮していたが、このザ・サウンドが彼の集大成とも言える優れたバンドだった。

ちなみにネオ・サイケというジャンル名は、実際にやっている音楽とあまり一致しないという事で後の時代にはダーク・ウェイブなどと言われてたようだが、ROCKHURRAHはネオ・サイケで覚えた80年代世代だからこのまま書きすすめるよ。

1stアルバム「Jeopardy」のトップを飾る名曲がこの「I Can’t Escape Myself」だ。
ゆったりしたイントロからサビの盛り上がりが初期U2っぽいけど、こちらの方が先輩だね。
ボノはこの辺から影響を受けたのかもしれないな。
哀愁を帯びた良いメロディと、そんなに緻密にまとまってないラフな演奏が大器の片鱗を漂わせていたザ・サウンドだが、歌がいいだけで見た目やキャラクターとしての魅力には乏しかった。
バンド名もただのサウンドじゃ抽象的過ぎてイメージもまるで湧いてこないよな。

同ジャンルの有名バンド、ジョイ・ディヴィジョンやエコー&ザ・バニーメンのように国際的な人気になるほどの活躍はなかったが、たまにインディーズ・チャートに名前が出る程度。
ネオ・サイケという暗くて重苦しい音楽ではヒットする方が難しいので、それでもこのジャンルでは中堅どころとしてのネームバリューはあったというべきか。

ザ・サウンドの人気がどれほどだったかのかは正確に知る術はないが、具体的な例で言うなら80年代に下北沢のUK EDISON(南口降りた右側のビル2Fにあった)で2ndアルバムがしばらく面出しされて置いてたのを目撃、それで初めてこのバンドのレコードを買ったという思い出がある。
ステンベルク兄弟のジャケットの1stは後に中古盤で買ったんだよな、などと人によってはどうでもいい事をなぜか何十年も覚えてるROCKHURRAH。
ちょっと前の事をすぐに忘れるくせに変な部分にだけ異常な記憶力なんだよな。
しかも具体的な例が人気や知名度を知る材料に全くなってない。

ぽっちゃりの割には鋭く狷介な目つきのエイドリアン・ボーランドはその後、精神を病んで、ザ・サウンドの解散後10年以上経ってから電車に飛び込み自殺で生涯を閉じた。
バンド以降の音楽キャリアもちゃんとあったのに、プライベートとかについてはよくわからないからね。
まさに「I Can’t Escape Myself」そのものの人生だったな。

ROOM2 黯然の美学

この「ニッチ用美術館」という企画の最も大変な苦労はチャプターごとにつける○○の美学、ここになぜか難読熟語を当てはめるという形式を勝手にROCKHURRAHがやり始めたのが全ての元凶だよ。
最初の頃はそんなにこだわってなかったはずなのに、チャプター・タイトルをつけるのに大変時間がかかる。
まさにニッチもサッチもいかない状態。
漢字で書くと「二進も三進も」となるのも初めて知ったよ。

例えば上のジャケット見てROCKHURRAHがすぐに連想する言葉がアンニュイなんだけど、最近ではこの言葉も滅多に聞かないな。
物憂げとか倦怠とかを意味するフランス語だが、80年代的には「アンニュイな表情した彼女」などと誰でも使ってた言葉だろう。
で、アンニュイに相当する難しい言葉を様々な方面から調べてみるが、得意の当て字もなくROCKHURRAH本人も別に漢字博士なわけでなく、ここで大変な労力を使って何とかそれっぽいのを考えたのが黯然。
あんぜんだから暗然でもいいのにわざと難しい漢字にしただけ。

黯然とは「悲しみでくらく沈んでいるさま」だとあるが、うーん、そういう表情とはちょっと違うかもな。
というわけでさんざん考えた難読漢字がジャケットをうまく言い表してない失敗もあるということだ。
相変わらずだが言い訳長いな。

さて、こんな黯然なちょっと良さげなジャケットで80年代初頭に人気だったのがB-Movieというバンド。
このジャケットの曲「 Nowhere Girl 」や同時期の「Remembrance Day 」が割とヒットして、当時は聴きまくっていた人も多かったはず。
この有名なジャケットを撮ったのがピーター・アシュワースという写真家で、80年代ニュー・ウェイブの有名ジャケットを数々手掛けた人。ヴィサージやアダム&ジ・アンツ、ソフトセル、ユーリズミックス、アソシエイツなどなど、あれもこれも知ってるジャケットの多くはこの人の写真、というくらいに売れっ子だったようだ。

英国ノッティンガム近くのマンスフィールドという郊外出身のB-Movie、元々はパンク・バンドをやっていたそうだが1stシングルもヒットした曲に比べるとアグレッシブで暗めの初期ニュー・ウェイブという感じがなかなか素晴らしい。

代表曲「 Nowhere Girl 」は元々1980年にオリジナルを発表したが、これは普通のバンド編成に初期デペッシュ・モードのようなチープなシンセを取って付けただけのようなヴァージョン。
それがあまり売れなかったからなのか1982年に大々的にメジャーっぽいアレンジをほどこして、どこに出しても恥ずかしくない哀愁のエレポップ・サウンドに仕上げたのがようやくヒットしたという経緯がある。
上に展示したレコード・ジャケットも80年ヴァージョンよりは遥かに良くて、ソフトセルやザ・ザで一儲けしたサム・ビザール(レーベル)の本気が垣間見える名盤。
が、いいバンドだから売れるというわけでもなかったようで、2曲はヒットしたものの誰でも知ってるバンドにはなり得なかった。
何でかはわからないが1stアルバム発表が85年、レコード・デビューしてから5年もの歳月が流れた頃で、世間から忘れ去られてしまうほどの遅咲きバンドだったな。
レーベルもちょこちょこ替わってるし苦労したのかね。

ビデオで歌ってるのが売れ線を意識した方のヴァージョンだが、ヴォーカリストの動きも明らかにメジャー狙い。
Bムーヴィーというバンド名とは裏腹なんじゃない?
最初のヴァージョンももったり感はあるけど味わい深く、本当はこんな風に変身したくないバンドだったんじゃないかな?と想像するよ。
インディーズで2曲もヒットしないバンドが多い中、後世に残る名曲を残しただけでも良しとしなければ。

ROOM3 软盘の美学

馴染みのない漢字だがこれはある種の人々になら読めると思う。
中国語でフロッピーディスクの事をこう書くらしい。

フロッピーディスク自体を知らない人や見たことない人、そういう世代も多いだろうけど、IBMが発明した古いパソコンの記憶媒体だ。
大まかに言うと四角いプラスティック板のような3.5インチとさらに大きな5インチのサイズのものがあったな。ちょうど上の画像みたいなヤツね。
ROCKHURRAHが大昔に使ってたモニタ一体型のMac(iMacとかよりもっと昔の時代)にはまだ3.5インチフロッピーを差し込めるようになってたが、それでもフロッピーディスクはあまり使った記憶がない。記録出来る容量が少なすぎたからね。

5インチの方はそれより前に働いてたゲーム屋になぜか古いパソコンが置いてあり、どうでもいいような仕事に使ったり、どうでもいいようなゲームをしたり、要するに役に立ってなかった。
頻繁にディスクの入れ替えしないと先に進めなくて、ものすごく面倒な割には大したことない機械だと思っていたよ。
この時代はまだMacなど知らずMS-DOSだったしなあ。

そんな厄介な大型フロッピーディスクをヒントにデザインされたのがニュー・オーダー初期の大ヒット曲「Blue Monday」だ。

英国マンチェスターで70年代末に設立されたファクトリー・レコーズはニュー・ウェイブの歴史において最も重要なレーベルのひとつだと全世界的に認められているはず。
TV番組の司会者だったトニー・ウィルソンを中心に作られたインディーズ・レーベルだが、地元のジョイ・ディヴィジョンを獲得してから歴史が変わるほどの発展を遂げた。
ちょうどパンクからニュー・ウェイブへの変換期で、人々が何か従来とは違った音楽を求めていた頃に出てきたというタイミングの良さもあったな。
暗くて重苦しかったり、風変わりでカッコ良さとは無縁だったり、実験的でポップスとは無縁のものだったり、方向性は色々だけど、従来のロックだったらヒットしそうにない部類のバンドも次々と話題になってゆく、そんないい時代だったのが70年代末のイギリスだったわけだ。
ジョイ・ディヴィジョンはそこまで風変わりなバンドではなかったが、世界との隔絶や絶望、死など負のベクトルに向かってゆく歌詞とぴったりな演奏、暗いバンドは数多くあっても(その多くはジョイ・ディヴィジョン以降だが)、ここまで突き詰めたのは他にいないのではなかろうか?と思えた。
その絶望のクライマックスがイアン・カーティスの首つり自殺というショッキングな幕切れだったのは、今ここでROCKHURRAHが書かなくても周知の事実だろう。

ヴォーカリストが死んだからといって神格化とか伝説にするのは意味がないが、深くリスナーの心に残る傷跡となったジョイ・ディヴィジョンは実像以上に過大評価されまくって、現代に至るまで何十年も多くの人に影響を与え続けている。

今回はジョイ・ディヴィジョンを語るつもりで書いてないからここまでにするが、ショックで活動休止となっていたバンドはその後、残りの3人でニュー・オーダーとして活動を再開する事になった。

ファクトリー・レコーズはリリースしたレコード以外にも、例えば飼ってた猫にも規格番号をつけるといったユニークなレコード会社だったが、そのセールスに貢献したのは昔マーティン・ゼロという名前で活動していた名プロデューサー、マーティン・ハネット。
そしてレーベルとしてのトータルなデザインに関与していたピーター・サヴィルの存在だろう。

世界的に有名なジョイ・・ディヴィジョンの1stアルバムのレコード・ジャケットは、その道の人じゃない限りわからないような天文学の分野から持ってきたデザインだそうだ。
CP1919という初めて発見されたパルサーからのパルス信号だという。
そういうところからヒントを得るセンスもピーター・サヴィルの手腕なんだろう。

上の12インチ、超大型フロッピーディスクと呼ぶべきデザインもニュー・オーダーのスタジオに置いてあったものを、ピーター・サヴィルがデザイン的に感ずるものがあってこのジャケットに採用したという話がある。
横の方のカラーチャートみたいな配列にもちゃんと意味があるそうだが、わかる人でもわからん暗号みたいなもの。

実用的に作られただけのものが整然とした美しさになるというのはインダストリアルなデザインでも今や当たり前だが、1983年当時ではどうだったのか?
80年代半ばくらいにパソコンではなくワープロを買って「これはすごく画期的」などと喜んでたレベルのROCKHURRAHには確かに斬新だったろうな。

ニュー・オーダーの初期はジョイ・ディヴィジョンの曲調の延長線という路線だったが、演奏は同じでも不世出のヴォーカリスト、イアン・カーティスがいないという喪失感に満ちあふれていて、個人的にはあまり聴く事はなかったな。
しかし途中からシンセサイザーなどの電子楽器をうまく取り入れ、ジョイ・ディヴィジョンの時代にはなかったダンサブルなバンドへと方向転換したのが成功して、当時のイギリス物が好きな人だったら誰でも知ってる知名度を得た。

イアン・カーティスの死から3年経ってリリースされた「Blue Monday」はニュー・オーダーの人気を決定づけた名曲。
月曜日にイアンの自殺を知ったことからつけられたタイトルで、過去の呪縛を断ち切らなかったバンドの苦悩が逆に聴衆の心を掴み、大ヒットとなった。

ビデオはタイトルにそうあったので1985年に初来日した時のライブ映像なんだろうが、2分以上もあるイントロで用意は十分かと思いきや、何だ?この高音は?
ヴォーカルが1オクターブ、歌の音程を間違えてそのままいつもの音程に戻すというハプニング映像で、見ている方がコケてしまうくらいの情けなさ。

ジョイ・ディヴィジョン時代にはギタリストだったバーナード・サムナーが付け焼き刃のヴォーカルという事はわかるが、もう歌い始めて数年経つのにまだ拙いというのは、よほど大舞台に弱いタイプなんだろうか?

 ROOM4 俊邁の美学

今回はたまたま選んだものが暗いのばかりになってしまったから、最後くらいは明るく終わりにしたいと思って、急遽予定を変えて別のジャケットを展示したよ。

一般的にはあまり使われる事はないと思うが、ROCKHURRAHとかよりもずっと上の世代だったら普通に使ってたかも知れない表現だな。
俊邁と書いて「しゅんまい」と読み、才知がすぐれていることという意味だそうだ。

子供の時に知能テスト、IQテストというようなものを受けた記憶はあるが、本人には結果を知らせない意向だったのか、親が知ってても教えてくれなかったのか?どういうシステムなのかはよくわかってないが、自分のIQはわからないでいる。
ROCKHURRAHの時代と制度が変わっても全然おかしくないから、今の時代の子はそういうのはどうなってるんだろうか?

この類いのテスト問題自体がものすごく嫌いなタイプのものだったので、どっちにしても良くはないに違いない。
嫌いなタイプの問題で意外と高得点ってのも考えにくいからね。

今回選んだジャケットの主人公が俊邁だという噂だが、書き始めた後でレコード・ジャケットについて語る「ニッチ用美術館」と俊邁は全然関係ない事に気づいた。
うーん、ジャケット自体に感ずるものは特にないなあ。
首の部分が長くなるモンタージュ写真みたいなものだが、不気味に感じる事はあっても美的に素晴らしいとは思えないよ。
どうやらグレース・ジョーンズの髪型がスパッと角刈りみたいになった有名なジャケットのアートワークを手掛けたフランス人によるフォト・コラージュみたいだが、意図は不明。

さて、そんな俊邁を言いふらすタイプの才女がこの人、クリスティーナという女性シンガー。
IQ165、ハーヴァード大を卒業した天才というキャッチフレーズでデビューした彼女は、1978年に元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルがプロデュースしたシングルでデビュー。
このレコードがZEレコーズというレーベルの最初のリリースとなった。

ZEレコーズはニューヨークに拠点を置くインディーズ・レーベルで、2人の創始者、マイケル・ジルカとマイケル・エステバンの頭文字を取ってZEを名乗り、アメリカのニュー・ウェイブ推進に貢献した。
この二人の経歴もエリートとしか言いようのないもので、普通の若者が仲間の協力で拙くインディーズ・レーベルを立ち上げたというような貧乏エピソードとは無縁のものだった。
この辺がイギリスとアメリカの温度差だと感じてしまうよ。

そのZEは世界的に有名なメジャー・レーベル、アイランドの傘下だった事もあり、インディーズ・レーベルとしてはかなり有名になった部類だと思う。
ROCKHURRAHがよく読んでた音楽雑誌の裏表紙とかがZEの広告だったりして、何だかよくわからんが興味を持って買ったレコードもあったのを思い出す。

このレーベルは所属ミュージシャンの傾向も意味不明で、キッド・クレオール&ココナッツやWAS(NOT WAS)などの売れ線ファンク系を主力としながらもフランスのリジー・メルシエ・デクルーを売り込んだかと思えば、一方ではコントーションズやリディア・ランチ、スーサイドなどのアンダーグラウンドで活動していたバンドも精力的にリリースしていた。
偏ってると言えばそうだが、単にニューヨークやパリを拠点とした最先端っぽいのを無差別に集めてみましたといった雑多なもの。
だからROCKHURRAHはZEレコーズについてはレーベルとしての魅力はあまり感じないというのが正直な感想だが、人によってはこのレーベルを絶賛してるのもいるから、捉え方は色々なんだろう。

さて、そのZEレコーズの看板歌姫としてリジー・メルシエ・デクルーと共にレーベルが強力にプッシュしていたのが本作の主人公、クリスティーナだ。

頭の良さだけでなくお色気もあるコケティッシュなシンガーとして売り出したかったようで、下着姿や露出度の高いドレスなど、ちょっと後の時代にマドンナがやるような路線の先輩と言えるような位置だったな。
ただし写真写りがいい時と悪い時の差が大きく、もしかしたら写りのいい奇跡の一枚を選んでジャケットにしたのかも、と思ってしまう。
デビュー当時が20代前半だったとしたら顔が大人び過ぎてる、平たく言えばもっと歳に見えるのもマイナスだったかな。
たまにクランプスのポイズン・アイビーっぽく見える時があって、それはそれでコケティッシュと言うべきか・・・。
インディーズのシンガーであまりプロモーション・ビデオも残ってないようなので、容姿がいまいちわからないよ。

「Ticket To The Tropics」は1984年に出た2ndアルバム収録でシングルにもなった曲。
今回展示した首長のジャケットであるこの2ndアルバム、邦題が「胸騒ぎのクリスティーナ」という恥ずかしいものだが、ちょうど同時期に少年マガジンで連載していた「胸騒ぎの放課後」を思い出す。
いつもそこだけ飛ばして読んでたなあ、という薄情なコメントしか出てこないが、それもまたいい思い出(ウソ)。

このアルバムを最後にクリスティーナは表舞台から姿を消すが、ZEレコードの首脳の片割れマイケル・ジルカと結婚。
逆に言えばジルカ氏が所属アーティストに手を出したという事が発端となって、ZEレコードに亀裂が生じ、そのうちレーベルとしての活動は休止したようだ。よくある喧嘩別れってヤツか。

その当時のニュー・ウェイブのエッセンスのひとつだった、割と無機的な声で60年代ポップスっぽい感じを歌うという手法は成功していて、本作も個人的にはなかなか良いと思える。
「ノー・ウェイブ(NYで流行ったノイジーでアヴァンギャルドな音楽)・シンガー」などと形容されることもあるが、アルバムを聴いてる限りはそんな感じはしない。
ROCKHURRAHの耳がおかしいのか?
その一年前くらいにイギリスで流行ったコンパクト・オーガニゼーション(マリ・ウィルソンで有名なレーベル)のやっていた事をアメリカっぽく、よりゴージャスに展開したという雰囲気はするね。え?全然違う?

結局、マイケル・ジルカとも離婚してその後にクリスティーナが何をやってたのかはよく知らないが2020年3月、つまり去年に新型コロナウィルスによって亡くなっている。
まだ流行り始めの頃で治療などが何なのかわからないうちに、だと思うと全然他人事には思えなくて恐ろしくなるよ。
うーむ、最後は明るく終わりたいと思って曲調だけで選んだのに残念な結果に終わってしまったな。

とにかく夏が大嫌いなROCKHURRAH RECORDSは毎年毎年言い続けてるけど、早く涼しくなって湿度も下がって欲しいと願うのみ。
ついでにコロナもいいかげんに国を挙げて、国民が一致して拡大を防ぐように誰もが努力して欲しいよ。

それではまた、ラーマス ブン(ルーマニア語で「さらば」)。

時に忘れられた人々【33】情熱パフォーマンス編5

20210314 top

【何だかよくわからぬ情熱に溢れたファイター達】

ROCKHURRAH WROTE:

元旦以来全くブログを書いてなかったROCKHURRAHだが、実に久々の登場となるよ。
病気だったわけでもなく何か別の事に奔走してたわけでもないけど、3ヶ月もぼんやりしてたわけだ。
SNAKEPIPEがクリエイティブな事(ブログを書くのがそうらしい)してる間にお菓子を焼いたり(ウソ)家事をしたり、なんて家庭的な人なのだろう。

久々のブログで何を書こうかと思ったけど、今回はROCKHURRAHが長くしつこく続けてる「情熱パフォーマンス編」でいってみようか。初めて書いたのが2011年らしく、10年間でたった5回だけしか記事を書いてないけどね。

ROCKHURRAHが書くのはパンクや80年代のニュー・ウェイブに限ってなんだけど、ロックの誕生前から色々なジャンルの音楽で歌い手はいて、その人なりのパフォーマンスを演じてきたことと思う。

本人はごく自然に歌に込めた思いや情熱を表現してるつもりでも、ごくたまに、傍から見るとすごく変な動きにしか見えないものがある。
そういった一瞬を捉えて何だかそれなりのコメントをいいかげんに書いてゆく、というのがROCKHURRAHのいつものパターンなんだよ。
では早速見てみようか。

【道化る!】
Vertigo / Screamers

「おどける」という言葉はあっても日常的に「どうける」とはあまり言わない気がするが、そういう言葉もちゃんとあるらしい。
似たような言葉で「ふざける」というのもあるが、漢字で書くと「巫山戯る」と一気に難しくなって、とてもふざけては書けないなあ。

まずはLAパンクの中でも変わり種として名前が残っているバンド、スクリーマーズから。

1970年代半ばにはすでにシーンを確立していたニューヨーク・パンクの連中がいて、そこからの影響で70年代後半にロンドン・パンクが生まれたのはパンク好きだったら誰でも知ってるはず。
アメリカ各地でも当然パンクは伝染して独自の進化をするのも当たり前だけど、ニューヨーク以外の大都会でも続々とパンク・バンドが登場してシーンを形成していった。
ロサンゼルスも色々とバンドが登場して注目されていたが、ROCKHURRAHはイギリス物を漁るのに忙しくて、アメリカのパンクにはあまり関心を持たなかったという過去がある。
個人的にかろうじて知ってるのは後にニッターズ(Knitters)という本格的カントリー、ブルーグラスのバンドとなってファンを驚かせたXやヴォーカリストがジョン・レノン射殺の前日に自殺したジャームス(Germs)くらいか。
詳しい人だったらLAパンクだけで食っていける(何の商売かは不明)ほど豊富な人材を誇るジャンルだと思うよ。

そんな中で地元シーンでは有名、ただし世間ではほとんど知られてなかったのがこのスクリーマーズだ。
1977年から1981年頃まで活動していたロスのバンドなんだけど、何しろ活動中にまともなレコードは一枚も出してないので、例えば音楽雑誌でその名前を知った人でもリアルタイムで聴いた事ある人はほとんどいないという状況。
後に発掘音源みたいな形でリリースされて初めて知られる存在になったという。
YouTubeで手軽にビデオを見れる時代になるまでは「LAに行って観てきた」って人じゃない限り、どんなバンドなのかもわからなかった、都市伝説みたいなバンドだったに違いない。
ロクにレコード出してなかった割には動いてる映像はかなり多数残されていて、彼らの活動はある程度は知る事が出来る便利な世の中になったものよ。

このバンドが変わり種というのはギターもベースもなく、ドラムとキーボードのみでちょっと奇抜なパンクをやってるというバンド構成。
エマーソン、レイク&パーマーというギター無しのバンドもそれ以前にはあったから珍しいというほどのもんでもないけど、大体ギターが中心のパンク界では希少種には違いない。
ROCKHURRAHが勝手に似た印象のバンドとして思い出したのがイギリスのスピッツエナジーだ。
スピッツオイル、アスレティコ・スピッツ80などレコード出すたびに名前を変えるB級SFパンク・バンドなんだけど、初期では何とヴォーカルとエレキ・ギターのみでレコーディングしてた(ちゃんと売られてた)という、アマチュア・バンドにも劣る構成の変バンド。四畳半フォークならまだわかるけど、その言葉も現代では古語かもね。
スクリーマーズはそれに比べりゃずっとマトモにバンド形態なんだけど、途中で入るブレイクのような音の奇抜さがスピッツと似てると思った次第。

そんな彼らの情熱パフォーマンスはいかにもパンクといった顔立ちのヴォーカリストによる突然のコミカルな仕草が真骨頂。
情報がないから定かじゃないが、「昔ちょっと道化師をやってまして」とかそういうタイプだったのかね?
この曲だけでなくどこでもちょっとだけ奇妙な動きが入るのが絶妙で、思わず目が釘付けになってしまうよ。
派手に堂々とじゃなくて本人もちょっと恥ずかしいのか、小刻みで控えめなところがいいね。

【成り上がる!】
Holiday In Cambodia / Dead Kennedys

ロサンゼルスが出たから同じカリフォルニア州のサンフランシスコを代表するパンク・バンド、デッド・ケネディーズも挙げておこうか。
全米パンク界でもかなりな有名バンドでパンク好きだったら知らない人はいないくらいだろうね。
甘乃迪已死樂團として中国でも知られてる模様。何じゃそれ?
サンフランシスコ市長選にも出馬した事があるという上昇志向の強いジェイロ・ビアフラを中心としたバンドで、日本でも割とリアルタイムでレコードが出たから知名度も高いしファンも多かったな。
オルタナティヴ・テンタクルズというレーベルを立ち上げて数多くのパンク・バンドをリリースし、世に広めた功績は大きい。

ROCKHURRAHはあまり政治的なメッセージ性が好きじゃないのと独特のヴィヴラートした声が苦手なので、みんなが「デッケネ(通称)」と熱狂してる時も冷ややかに通過したけど、それでも「Holiday in Cambodia」や「Kill the Poor」「Nazi Punks Fuck Off」などは愛聴していたものだ。

その代表曲「Holiday in Cambodia」は何種類かのジャケットがある事で知られているシングルだが、ROCKHURRAHが持っているのは青と朱色みたいなヴァージョンだった。
単に空爆か何かのイラストだと思ってたら、調べてみると「バーニング・モンク・スリーブ」との事。よく見たら確かにモンク・イズ・バーニングだったよ(意味不明)。

1975年から79年までカンボジアの政権を握ったのがポル・ポト率いるクメール・ルージュ(ポル・ポト派)で、たったの4年間にカンボジア人口の4分の1の人が虐殺されたという恐ろしいまでの黒歴史。
そんなに大昔じゃなくてこんなに恐怖の政権があったのかと思うと、思い上がった人間の身勝手さに誰もが怒りを覚えるだろう。
たぶんその事についての強烈な批判が歌詞に込められていると勝手に想像したんだが、英語が苦手なROCKHURRAHにはよくはわからん。

ビデオは他のメンバーがクールに決めてるところに緑色のゴム手袋して明らかに挙動不審なビアフラ登場。怪人かよ!
この変な動きと顔芸でそんなシリアスな歌を歌うか?というふざけっぷりにこっちや後ろのメンバーが心配になるよ。
歌ってる時の表情がたまにE・YAZAWAに似てると思ったのはROCKHURRAHだけか?
やっぱりBIGになる人間には共通したものがあるのか。

【妨げる!】
Young Savage / Ultravox

昔から自己顕示欲が低くて、前に出る事が少なかったROCKHURRAH。
個人主義でリーダー的気質はたぶんないにも関わらず、周りに関羽とか張飛的な存在が大体いて支えてもらってたから、自分で思うよりリーダーになる場面も多かったな、と回想する。それが人徳ってもんか。
だからというわけじゃないが「妨げる」という行為が嫌いで、邪魔しない男としてずっと生きてきた。
最近は何するでも迷惑かける邪魔な人間が多くて困るよね。

続いてはヒステリックなおばちゃん顔で有名なジョン・フォックス率いる初期ウルトラヴォックス。
去年11月の記事で書いたばかりだが、よほど好きと思われても仕方ない頻度で書くな。

1970年代に出た3枚のアルバムでヴォーカルを担当し、80年代にソロとなってからは物静かなインテリといったイメージのジョン・フォックスだったが、最初の頃はかなりアグレッシブで危ない男だったようだ。

釘を打つようなリズムと乱暴な早口ヴォーカルはロンドン・パンクの代表的なスタイルと見事に一致してたし、もっと評価されて良かった時代にはちょっと不遇な扱いのバンドだったね。早すぎたニュー・ウェイブと言うべきか。
元ビーバップ・デラックスのビル・ネルソンやチューブウェイ・アーミーのゲイリー・ニューマンと共に未来派パンクの先鋒としてシンセサイザーの効果的な使い方を(ロック的に)世に知らしめた、その功績は大きい。

ブライアン・イーノ、スティーブ・リリーホワイト、コニー・プランクという最高級プロデューサーの力を得て作った3枚のアルバムはどれも先進性に溢れた傑作だったな。パンクの名盤として挙げる人も多いはず。
にも関わらず商業的には成功せず、ジョン・フォックスが脱退した後でリッチ・キッズやヴィサージで活動していたミッジ・ユーロが加入した途端に、メキメキ人気バンドになっていったという経緯がある。
SNAKEPIPEもジョン・フォックス在籍時のウルトラヴォックスは知らなかったという。完全に別物バンドだもんね。

後に初期ウルトラヴォックスのマネしたようなチューブウェイ・アーミーが「先進的」と言われバカ売れしたり、先進的な事を始めたから話題になって売れるわけじゃないという現実をイヤというほど味わったのが本家ジョン・フォックスだろうね。

ウルトラヴォックスは確かな演奏力を持ったバンドでレディング・フェスティバルの出演経験(シャム69やジャムも出てた豪華な顔ぶれ)もあるが、ドイツのTV番組で悪ノリし過ぎた映像がこれ。
どうせ歌も演奏も口パクなのはわかっちゃいるが、ジョン・フォックスのハメを外しすぎな態度にメンバーから苦情続出間違いなしだよ。
演奏してるのも構わず無理やり肩を組みコーラスさせたり完全に寄りかかったり、狭いステージなのに暴れまくってもう大迷惑な男。これがちゃんとしたライブだったら音はメチャクチャになるだろうし「あっち行けよー!」と言いたくなる。

ジョン・フォックスがなぜ脱退したのかは知らないが、周りの事を考えないワンマンっぽい雰囲気があるし(勝手な想像)、叩き上げのミュージシャンっぽいメンバーとは合わなかったのかもね。
などと言うよりも上の映像みたいなふるまいをしてたら、そりゃ追い出されてもするわな(完全に想像)、と思ってしまうよ。
「クワイエット・マン」などと歌ってる割には何をするでも俺様中心、騒々しそう。

【開き直る!】
Aubade a Simbad / Jad Wio

次はフランス産、どぎついアングラ感満載のデュオ、Jad Wioだ。
カタカナ表記した日本のサイトがほとんどなく、正式にはよくわからないが、ROCKHURRAHは当時はジャド・ウィオと呼んでいたよ。ジャド・ヴィオとも書かれているな。

その昔、フランスのOrchestre Rougeというバンドに大変のめり込んでいて、それをきっかけにフランス産のネオサイケ、ポジパンなどのダークな音を探してレコード屋巡りをしていた時期があった。
いや、レコード屋巡りはそのフランス産に限らず、パンクの頃もサイコビリーに凝ってた頃も日課のように各地に出没してたよ。
当時、世田谷代田に住んでたが、色んなレコード屋をはしごして必死で目指すレコードを入手していたもんだ。
新宿のヴィニール、渋谷のZESTやCSV、明大前のモダーン・ミュージック、下北沢のエジソン、高田馬場のオパスワンなどなど、足繁く通った店もあれば一回こっきりしか行かなかった店もある。安く掘り出し物を見つけたいからディスク・ユニオンやレコファンなどの中古屋などにも数日周期で通ってたな。

そんな中で知った数多くのバンドもあったけど、L’Invitation Au Suicideというフランスのレーベルが個人的にはお気に入りで、そこのレコードを見つけると優先的に買っていたもんだ。レ・プロヴィソワールやペルソナ・ノン・グラータなど質の高いバンドをリリースしてたからね。
Jad Wioもそこから出していたので知ったバンドだった。
バウハウスのピーター・マーフィーっぽいヴォーカルにダークな音作り、その当時のポジパンやゴシックと呼ばれる音楽の理想形に近かったが、メンバーのヴィジュアルも不明だったし「これ!」という個性、決め手がなかった。
だからその後、熱心に追いかける事もなくROCKHURRAH個人的にもダークの時代が終わりつつあった。

この二人組がレコードを出したのが84年くらいからで、ポジパン時代のピークをやや過ぎてなので日本ではそこまで話題にもならなかったもんね。どこの土地でも入手出来るわけじゃないフランス物だったからなおさらね。
うーん、Jad Wioの思い出ってほどの事もないくせに十数行も書いてしまったな。

そしてずっと後になってYouTubeで偶然に映像を見て仰天したのが上の姿。
こんな二人でやってたのか、まるでコミックバンドじゃん。
全盛期のラッキィ池田を思わせるようなクネクネの動きで、歌い踊る変態ヴォーカリストと楽器担当の自己陶酔感が満載のビデオでヴィジュアルとしてのインパクトは圧倒的。二人とも病気のような細さだね。
ここまでじゃないがROCKHURRAHもレコード屋通いしてた昔はやせ細っていたな。食うものも食わずレコードに費やしてたわけじゃないけど一生太らないと勝手に思ってたもんだ。が、今では・・・。

この二人は変でイビツな自分たちをちゃんと肯定するところから始まって、それでずっとやってきているのが偉いね。
普通だったらこの顔とスタイルに生まれてきて、こんなつながった眉毛描かないよな。

【供える!】
Tapetto Magico / The Wirtschaftswunder 

多くは生まれ育ちの環境によるもので個人の資質(?)や敬虔さとは関係なく、ROCKHURRAHは神仏とは縁のない暮らしをしてきた。父親が死ぬまでは家に仏壇もなかったし、物心ついてからじいちゃん、ばあちゃんと呼べる存在も身近にいなかったし。
だから何かを供えるという行為をした事もないし法事とも無縁の生活をしてたよ。

家が金田一耕助シリーズに出てくるような旧家だった、とか先祖代々住んできた家だったとか、そういう家庭に育った人ならばお供えくらいは日常的にしたことあるだろう。
宗教がもっとぐっと身近にある海外ではそんな罰当たりな子供はいなくて、誰でも先祖や神を敬う機会くらいはあるのだろう。

さて、最後に紹介する情熱パフォーマンスはこれだ。
ドイツ産ニュー・ウェイブであるノイエ・ドイッチェ・ヴェレの中でもパイオニア的存在であるのも関わらず、かなりイビツなバンドゆえに、メインストリームからやや外れてしまった感があるのがこのWirtschaftswunderだ。
読めん!編」 でも書いた通りなかなか読めんバンド名だが、ヴィルツシャフツヴンダーとROCKHURRAHは呼んでいたな。
日本語に訳せば「第二次大戦後の(ドイツの)急速な経済復興の奇跡」という意味らしいが、これがひとつの単語だと言うのが驚くべきドイツ語。

ヴィルツシャフツヴンダーはイタリア人とカナダ人とチェコスロバキア人とドイツ人による国際色豊かな4人組として1980年にデビューした。
ちょうど盛り上がっていたノイエ・ドイッチェ・ヴェレのブームに乗って人気バンドとなった・・・というわけにはいかなくて、大半のノイエ・ドイッチェ・ヴェレのバンドと同様、日本では一部の好事家以外には無視されるようなバンドだった。
ヴォーカルはいかにもイタリー系のマフィア顔だし、他のメンバーも誇れるような容姿をしてないというのに、古臭いポートレート風の顔写真ジャケットで買うのが恥ずかしかったり、1stシングルに至ってはひどいとしか言いようがないジャケットだったり、とにかくヴィジュアル戦略がまるでなってなかったな。

音楽の方はいかにもニュー・ウェイブ初期の実験的なもので、かなり奇抜で妙な躍動感と高揚感に溢れたすんごいもの。
これに比べると奇抜と言われてるらしい最初のスクリーマーズなんてかわいいものよ。
聴く人を選ぶがヘンなのを探していて見つけたならフェイバリットと叫ぶ人もいたはず。ニュー・ウェイブの盛んだった時代に多くの人に知られなかったのが残念なバンドだったよ。

このスタジオ・ライブのような映像もすごい迫力でROCKHURRAHの大好きなもの。
「Tapetto Magico」は1982年の2ndアルバムに収録されていた曲。
PILの「Flowers Of Romance」を思わせる中東風なのかアフリカのどこかの民族調なのかわからないが、とにかく名曲。

ヴォーカルも変だが左側のクラリネット男(キーボードもラッパもこなすマルチ・ミュージシャン)のテンションがすごい。どこかの部族で、獲ってきた獲物を神に捧げるかのような力のこもったアクション。顔もモロに戦士だよね。
目が釘付けになってやみつきになってしまうよ。どのビデオ見てもおっちょこちょいそうな小太りギタリストも本当にいい味出してるよ。素晴らしい。

以上、久しぶりのROCKHURRAHがお送りした80年代満載の記事、相変わらずのワンパターンで飽きられてしまうだろうか。
それではまた、ナ スフレダノウ(チェコ語で「さようなら」)。

ふたりのイエスタデイ chapter20 /ファンカ・ラティーナ

20210207 top
【Haircut 100のアルバム「ペリカン・ウェスト」のジャケット】

SNAKEPIPE WROTE:

毎週楽しみに観戦しているアメリカPGAツアー。
ほとんどの試合はアメリカ本土で開催されているけれど、選手はアメリカ人ばかりではない。
世界各国から参加していて、最近では南米の活躍が目立つ。
チリやアルゼンチンでゴルフ、というイメージはないけれど、実際に選手が活躍しているから驚いてしまうね。
南米といえば、サッカーにサルサやボサ・ノヴァ、サンバなどのラテン音楽と思ってしまうのはステレオタイプ過ぎるのかな?

80年代に流行ったニュー・ウェイブに、ラテン音楽をミックスするジャンルがあった。
ファンカ・ラティーナと呼ばれ、一世を風靡したんだよね。
ファンクとラテンをミックスさせた造語は、誰が考えたのやら?
この言葉はもしかしたら日本だけで通用している言葉だったのかもしれないけれど、当時はジャンルとして確立されていたように思う。
いくつものバンドが、ラテン要素を含んだ曲を発表していたんだよね。
ノリの良さと一緒に歌えるメロディーラインで、SNAKEPIPEも大好きだったよ!

Haircut 100の「Favorite Shirts」はファンカ・ラティーナを代表する曲と言っても過言ではない。
そしてこの曲の邦題「好き好きシャーツ」が、当ブログのカテゴリー「好き好きアーツ」の元ネタ!(笑)
2020年8月の「ふたりのイエスタデイ chapter19 /Altered Images」で、オルタード・イメージのクレアちゃんの肖像画を描いたことを書いたけれど、実はこのバンドのヴォーカルも描いていたことも思い出した。
ニック・ヘイワード(トップ画像一番左)がアイドル的な風貌で、とても人気があったからね。

軽快なギターのカッティングが印象的で、本格的なファンクでもラテンでもないけれど、ニュー・ウェイブ世代のライト・リスナー向けラテン音楽入門になったバンド、とROCKHURRAHが語っているよ。
そしてHaircut 100の特徴は、トップのレコード・ジャケットでも分かるように、白いセーターをインにして、その上からサスペンダーを使用するスタイルだったり、お坊ちゃま風の服装が多かったこと。
なんとセーターの上からのサスペンダーは、当時はROCKHURRAHも真似ていたらしいよ。(笑)
その頃ROCKHURRAHは、地元の北九州在住だったので、そういう服装を理解してくれるのは、限られた人だけだったみたい。
苦労したんだねえ、ROCKHURRAH!(涙)

良家のご子息がバンドをやってる、みたいな風貌なのにファンクっぽいノリの良い音楽だったというギャップも魅力だったんだよね。
ファンクにラテンというと、みずみずしい印象にはなりづらいのに、Haircut 100には爽やかさがある。
彼らのおかげで(?)ファンカ・ラティーナが幅広い世代に支持されて、一大ムーブメントになったのでは、とROCKHURRAHが推測しているよ。
Haircut 100は他にも「Love Plus One」(邦題:渚のラブ・プラス・ワン)などヒット曲を出している。
この邦題も非常に気になるけれど、レコード会社の人のセンスだろうね。(笑)

続いてはModren Romanceの登場だよ!
「Ay Ay Ay Ay Moosey」(邦題:今夜はアイ・ヤイ・ヤイ!)もノリノリになっちゃうダンス・チューンだよね。(笑)
そしてまた気になるのが邦題なんだけど、SNAKEPIPEとROCKHURRAHはこのタイトルで覚えてるんだよ。
当時は原題を知らなかったしね。
そして今回初めて動いている姿を観たよ。
こんな顔だったとは知らなかったね。

ファンカ・ラティーナについて書くことをROCKHURRAHに話すと、次々とバンド名が出てくるんだよね。
Blue Rondo à la Turkのような長いバンド名もスラスラ口にできる。 
若いうちに覚えたことって忘れないものだね。(笑)
曲は「Me and Mr. Sanchez」。
とても懐かしいよ!
Blue Rondo à la Turk解散後、結成されたMatt Biancoもヒットしたね。

これも長いバンド名のRip, Rig & Panic
そんなに長くないか?(笑)
この映像は、どうやらイギリスのホームドラマの中で「You’re My Kind of Climate」を演奏しているシーンらしい。
それでこんな扮装をしてるんだね。
音楽に合わせているのか、ドラマの展開のせいなのか、かなり民族音楽要素が強い。
ヴォーカルのネナ・チェリーは服装のせいはもちろんだけど、「Buffalo Stance」の頃とはまるで別人だわ!

Pigbagは、上に書いたRip, Rig & Panicと一緒に「The Pop Group」というバンドを組んでいたという。
解散後、メンバーがそれぞれバンドを作ったってことだね。
The Pop Groupは硬派なメッセージ色の強いバンドだったらしいけれど、Pigbagのヒット曲にいたっては歌詞がない!
インストゥルメンタルの「 Papa’s got a brand new pigbag」は、日本ではHONDAのCMでも使われていたっけ。
ああ、懐かしき80年代よ!(涙)

最後はアメリカのバンドにしよう。
Kid Creole & the Coconutsは音楽性はもちろんのこと、そのファッションにも注目が集まったんだよね。 
1940年代頃流行したダブダブのシルエットをした「ズート・スーツ」を身に着け、イカサマ師かチンピラかといったインチキ臭い風貌のキッドがヴォーカルだった。
ここでもまたROCKHURRAHのエピソードがあるんだけど、ズート・パンツも着ていたらしいよ!
音楽とファッションが密接に絡んでいた時代だからね。

思い出しながらツラツラと書き綴ってみたけれど、とても懐かしくなってしまったね!
どうしてファンカ・ラティーナのようなムーブメントが起きたのかは謎だけど、日本でもジュディ・オングの「魅せられて」、久保田早紀の「異邦人」や庄野真代の「飛んでイスタンブール」がヒットしたように、異国情緒ブームが起きたことがあったもんね? (古い!)
仕掛け人がいるのかもしれないけれど、世の中の流れが同じような方角を向くことってあるのかもしれない。

久しぶりにファンカ・ラティーナを聴いたら楽しくなってしまった。
さあ、踊ろう!
みんなでアイ・ヤイ・ヤイ!(笑)