ふたりのイエスタデイ chapter08 / Art Of Noise

【今見ても意味不明のレコードジャケット。その謎に惹かれるんだよね】

SNAKEPIPE WROTE:

SNAKEPIPEとROCKHURRAHがこれまでの人生において好きだったことを語っていく「ふたりのイエスタデイ」。
過去恥部的な企画のせいか、なかなか書き辛いのが実情なんだよね。
なるべく恥ずかしくないように努力すれば大丈夫かな?(笑)

天気予報と時刻を知る目的のため、朝だけはテレビをつけるけれど、それ以外の時間はつけるとしたらラジオである。
以前何かの記事にも書いたけれど、最近はインターネットラジオでパンクか80年代ニューウェイブのチャンネルを聴くことが多い。
かつて大好きだったあの曲、あのバンド。
最近は人の名前や映画のタイトルをすぐに思い出せなくなっているのに、どうして80年代のバンドと曲名はあっさり口をついて出てくるんだろう。
若いうちに勉強しておいたほうが良い、というのがよく解るね。(笑)
今日はそんな大好きだったバンドの中からThe Art Of Noiseについて書いてみよう。

ここからはカタカナ表記でアート・オブ・ノイズと書いていくのでよろしく!
アート・オブ・ノイズって何?という人のために、少し説明をしてみようか。
などと大それた書き方をしてしまったけれど、当時はほとんど情報がなくて「トレヴァー・ホーンのZTTレーベルからデビューした謎のバンド」というような紹介しかされていなかった。
トレヴァー・ホーンって大ヒット曲「ラジオスターの悲劇」で有名なバグルスのリーダーね。
最初は覆面バンドで、誰がバンドのメンバーなのか全く知られていなかったんだよね。
現在では、例えばWikipediaにもメンバーについての情報があるので、SNAKEPIPEも今回調べて初めて知ったことばかり。(笑)
特にメンバーや使用していた機材についての知識がなくても、その革新的な音楽には聴いた瞬間から魅了されてしまったのである。

トレヴァー・ホーン発明と言われる
「オーケストラヒット」や、
当時1000万円以上したサンプラー「フェアライトCMI」によって作り出されたサウンド・コラージュと、
当時最新鋭の技術であった「サンプリング」を駆使して、車のエンジン音や物を叩く音など
身のまわりのノイズを再構築することで
音楽に仕立て上げた「騒音の芸術」

いやはや、文章で表現するとこんな感じになるんだね。(笑)
「におい」や味と同様に、音楽についても実際に聴いてみないとわからないと思うけど、実験的なエレクトリック・ミュージックだということは分かるよね。
アート・オブ・ノイズの場合は、そんな機械的なイメージに文学的要素をプラスしたため、知的な音楽集団というイメージになったんだよね。
「afraid」「close」「fear」などのネガティブな単語を使ったタイトルにも興味を持ったことを覚えている。

Wikipediaからの受け売りだけど、グループ名は、イタリア未来派の画家・作曲家・楽器発明家 ルイージ・ルッソロの論文「騒音芸術(Art Of Noises)」から採用されているという。
ちなみにレーベル名である「ZTT」もイタリア未来派の詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティのサウンド・ポエム・タイトル「Zang Tumb Tumb」や「Tuuuum」という単語から影響を受けているとのこと。
サウンド・ポエムってなんだろう?
調べてみると「意味を拒絶した音の響きだけで成り立たせようと試みる詩」で、ダダイストのH.バルやシュルレアリストのA.アルトーは純粋な音響詩を試みているらしい。
これってもしかしたら先週の「映画の殿」で書いた
Digue dondaine,digue dondaine,
Digue dondaine, digue dondon!
みたいな感じなのかも?
意味を拒絶、という定義に当てはまるのかどうか分からないけどね。

最初に聴いて衝撃を受けたSNAKEPIPEは、すぐにLPを購入する。
「Who’s Afraid of the Art of Noise?」、邦題は「誰がアート・オブ・ノイズを…」だった。
どうしてこの邦題になったのか不明だけど、このタイトルにも文学的な匂いを感じていたSNAKEPIPE。
当時は文学少女だったから反応したんだろうね。(笑)

文学的と書いたけれど、実はほとんど歌詞はなく、インストゥルメンタルな曲ばかり。
実験音楽に触れたのは初体験だったけれど、すんなり馴染んだのはリズムとメロディラインがはっきりしたポップなチューンが多かったからだろうね。(この表現は古めかしい!)

当時はミュージック・ビデオを見る機会は限られていたので、上のビデオも初めて見たよ。
どこで撮影したんだろうか。
まるで「映画の殿 16号」 で特集したタルコフスキーの「ストーカー」の中に出てくるような場所だよね。
やりたいことはよーく分かるんだけど、撮影技術がついていっていない感じの、少し残念なビデオ。
もうちょっとアートにできたと思うけどなあ。


実はアート・オブ・ノイズが来日した時、長年来の友人Mと一緒にライブに行ってるんだよね。(笑)
Wikipediaによると1986年日本青年館で東京公演とあるので、多分それを観たんじゃないかな?
あまりはっきり覚えていないけれど、上の画像にある仮面が舞台の上部に飾られた真っ暗な中でのライブだったような?
そのため本当に今、ここで演奏しているのか不明で、もしかしたらレコードをかけていても分からないような状態だった感じ。
なんだかせっかく出かけて行ったのに、肩透かしを食らった気分だったっけ。 (笑)

数年してからテレビから聴いたことがある音楽が流れてくる。
そう、日本ではもうすっかりお馴染み、Mr.マリックのテーマとして認知されてしまった「Legs」である。
あの知的な文学性を持ったアート・オブ・ノイズが、ハンドパワーのマジシャンに採用されるとは意外だったよ。(笑)
手品師の音楽といえばポール・モーリアの「オリーブの首飾り」を思い出すけれど、同じようなイメージがつくのはちょっと残念!

トレヴァー・ホーンは2010年に大英帝国勲章を授与されているという。
現在はThe Producersというバンドで、かつて自分が関わった曲のカヴァーを演奏しているみたい。
もう一度何か世間をあっと言わせるようなことを仕掛けてくれないかな?

ふたりのイエスタデイ chapter07 / Duran Duran

【いかにも80年代!なシングルレコードジャケット】

SNAKEPIPE WROTE:

自宅で何かしらの作業をする時にかけるのがインターネットラジオだ。
以前はオリジナルパンク専門チャンネルにしていたけれど、選曲に偏りがあるのと連日聴いていると同じ曲がかかることが多いため、違うチャンネルを探すことにした。
やっぱり聴いていて安心するのは80年代!(笑)
そこでニューウェーブ専門チャンネルを聴くことにしたのである。
次々と知っている曲が流れ、イントロだけで曲名とアーティスト名を思い出す。
最近では人名や、例えば映画のタイトルをど忘れすることが多くなっているのに、この差は一体何だろう?
SNAKEPIPEの青春時代、心をときめかせながら熱心に聴いていた曲だからだろうね。
それほどまでに熱中していたニューウェーブ、今日はその中から一つのグループを選んで書いてみようか。

いつから洋楽を聴くようになっていたのか思い出せないけれど、恐らく英語の勉強が始まった頃には洋楽ばかり選んで聴いていた。
まだ子供だったSNAKEPIPEがどのようにして情報収集を行ったか?
貪るように週に一度の音楽番組を見ることと、FMラジオのエアチェック。
最初は聴き流していただけだったけれど、次第に録音を始める。
そのうちFM番組の情報誌を買って、エアチェックをするようになった。
この時代は当然のようにカセットテープ!
お気に入りの曲を録音できた!と喜んだ後で、テープが残り少なくなっているのに気付き、慌ててフェイドアウトするように録音する技で乗り切ったものだ。
現代のようにたくさんの情報を容易く入手できなかったからこそ、一生懸命自分の力で集めていくしかなかったのである。
SNAKEPIPEと同世代、もしくは上の世代の方なら大きく頷いてくれるはずだ。(笑)

もう一つの情報源であるテレビは、火曜日だったか水曜日の夜7時から始まるローカル番組だった。
SNAKEPIPEの実家では、家族が揃って夕食をとるのが習慣だったので、その音楽番組を見ながら食事をしていたのである。
外国のアーティストのミュージックビデオを見られる、唯一の番組を食事をおろそかにしながら食い入るように見ていたものだ。
その番組は全米トップ40などのランキングを紹介するものではなく、番組独自のセレクトやリクエストを応じてビデオを流すタイプだった。
そのため女性に人気があるアーティストの曲がかかることが多かった。

チープトリックジャパンデヴィッド・ボウイ、そして時代が変わるといつしかニューウェーブ系のバンドの紹介ばかりになっていたのである。
中でも人気だったのはデュラン・デュラン
ちなみにこのバンド名は、フランスのSFコミックで大人向けのバンド・デシネとして出版された「バーバレラ」の中に登場するキャラクターから名付けられているそうだ。
デュラン・デュランは音楽的にもビジュアル的にも注目の的だった。
もちろんSNAKEPIPEも熱心に音を集め、ビデオを録画したものだ。
デュラン・デュランは最初からプロモーションビデオ作りに熱心で、映像にも力を入れていたね。
アイドルグループという枠を完全に超えていたと思う。
その最たる例が「Girls on film」のビデオではないだろうか。

家族で夕食を食べている時に、セミヌードの女性が登場するこのビデオは、思春期を迎えていたSNAKEPIPEには居心地が悪かったことを覚えている。(笑)
最近は年齢によって視聴を制限しているので、このビデオはyoutubeでは観ることができないようだ。
そんなビデオがお茶の間で流れるというシーンを想像してみて欲しい。
気まずい空気になることが解って頂けるかな?(笑)

周りの友人達も皆デュラン・デュランに夢中で、一緒にフィルムコンサートに行ったこともある。
スクリーンにメンバーが登場すると、黄色い悲鳴が聞こえていたっけ。
コンサート会場さながらの雰囲気だったね。(笑)
そして実はライブにも行ってるんだよね!
特にメンバーのうちの誰のファンだったということはなかったけれど、写真やビデオ見ていたのとは違い、ボーカルのサイモン・ル・ボンが一番カッコ良く見えたのが意外だった。
確か本国イギリスでも、一番人気はサイモンだったはずだ。
SNAKEPIPEの友人達は皆ベースのジョン・テイラーのファンだったので、何故サイモンが人気なの?と言い合っていたものだ。
ところがどっこい、実物をみて納得した。
あとから考えれば、他のメンバーは楽器を演奏しているため、ほとんど定位置から動かない。
ボーカルだけは自由に動き回っていたので、それだけでも充分有利だからね!

2010年10月にROCKHURRAHが書いた「痛くて怖い物語」の中で映画「28週後」についての感想がある。
その中で登場人物であるジェレミー・レナーを説明している文章が
「デュラン・デュランのサイモン・ル・ボンをふくよかにしたような顔」とのこと!
あれ?そう言っているのはSNAKEPIPE、とも書いてあるね。(笑)
どれどれ、実際並べて比べてみようじゃないの!
どお?左がサイモン、右がジェレミーだけど、似てない?(笑)

デビュー曲である「Planet Earth」を演奏しているライブ映像をROCKHURRAHが見つけてくれた。
お客さんの服装や化粧から当時のニューロマンティクスを感じ取ることができるよね。
この時代のロンドン、スティーブ・ストレンジが経営していたクラブ「ブリッツ」に行ってみたかったなあ!(笑)

一大ムーブメントだったニューロマンティクスは次第に終息していき、時代がさかのぼるけれど、SNAKEPIPEの個人的な興味は次第にパンクへ移っていった。
そのためデュラン・デュランのシングルカットされた曲を調べたところ、本当に初期の一部しか知らないことが判明したよ。
そう、実はデュラン・デュランは現在も活動中!
メンバーはSNAKEPIPEが知っていた時代の4人が健在とはびっくりだね!
そして更に驚くことに、デュラン・デュランのライブ映像を敬愛する映画監督デヴィッド・リンチが監督したというじゃないの!

米マヤシアターでの2011年の公演を「Duran Duran: Unstaged」として映画化し、日本公開は4月17日とのこと!
トレイラーにはリンチ自身も登場しているけど、本編ではどうなんだろう?
かつて熱狂したバンドとリンチのコラボ。
デュラン・デュランはどれだけぶり?(笑)
劇場でのリンチの映像も「インランド・エンパイア」以来となるんだね。
とても楽しみだ!

ふたりのイエスタデイ chapter06 / Bill Nelson’s Red Noise

【チープな未来主義に満ち溢れた、大好きなジャケット】

ROCKHURRAH WROTE:

誰でも少年少女時代にその後の自分の生き方のルーツとなる事柄を見出すとは限らないが、人はさまざまなものに影響を受けて自分を形成する。
子供の時からそれが首尾一貫する場合もあるし、輝いているものがその時によってコロコロと変わる人もいる。
ROCKHURRAHの場合はそれが良かったのかどうかはわからないが、ずーっといつまでも変わらない部分があって、しかもある程度以上に間口を広げることがなく、進化も発展もないままだ。
少年時代に出会ったパンクやニュー・ウェイブという、これから先にもうリアルタイムでは生産される事がない音楽にずっと入り浸った標本みたいなもんか?

そんなROCKHURRAHのルーツを語ってゆくのがこの「ふたりのイエスタデイ」というシリーズ記事だ。
今回はROCKHURRAHの原点とも言えるアーティストについて語ってみよう。

いつも自分の周りに70年代ロックがかかっている、そして部屋の中のすぐ近くにギター2、3本は置いてあるような家庭でROCKHURRAHは育った。だがしかし、悲しいことに古いロックが大好きな二人の兄からの影響はあまり受けてなくて、洋楽に目覚めた最初の頃はプログレッシブ・ロックなどを聴いていた。
少し成長して自分なりの音楽を模索していた頃に見つけたのがスティーブ・ハーリィ&コックニー・レベルとビー・バップ・デラックスの2つのバンドだ。この2つからの影響が今のROCKHURRAHの音楽嗜好のルーツだと言える。コックニー・レベルについてはこの企画「ふたりのイエスタデイ」の第一回で書いたな。だから今度はビー・バップ・デラックス=ビル・ネルソンについて。

最初に知ったのはやはり兄からの勧めだったと思うが、家にはレコードは一枚もなかった。同じ頃にロックに傾倒していった友達、K野とその頃に良く行ってたのが小倉(福岡県北九州市)の東映会館裏にあったダウンビートという小さなレコード屋だった。断っておくが現在の小倉の市街地とたぶん全然配置が違っているはず。この店は今でもあるのかも知れないが、ROCKHURRAHがまだ小倉に住んでいた頃はその場所にあったのだ。
ん?東映会館もうないのか?
今の小倉に住む若手にも話が通じないかもね。

いつものごとく話がそれたがそのダウンビートという店で初めて買ったのがビー・バップ・デラックスの5枚目のアルバム「ライブの美学」という7インチ・シングル付きの国内盤だった。
青年時代以降ならばすぐにわかるフリッツ・ラングの「メトロポリス」に出てきた女性型アンドロイドがジャケットに使われたこのアルバム、当然ながら買った当時はそんなもの知る由もなかったが。
ちなみに2回も店名出した割にはこの店の思い出は特になくて、買ったの覚えてるのはこの一枚のみ。普通の小さなレコード店だったなあ。

ビー・バップ・デラックスは1974年、コックニー・レベルよりもさらに一年遅れでレコード・デビューした英国のバンドだが、初期はコックニー・レベルと同じように遅咲きのグラム・ロック・バンドという扱いだった。
ただ、他の典型的グラム・ロックと少し違う点はビル・ネルソンというギタリスト兼シンガーが目指す世界が彼のSF的嗜好を反映したもので、歌詞もタイトルも音楽もかなりSFっぽいのが特徴。
そのSFも高尚なものではなく、例えて言えば40〜50年代の人が思うレトロなSF漫画的未来だったりする。
彼らの4枚目のアルバム「Modern Music」でビル・ネルソンが腕にはめているのは腕時計型のTV、もしくは受信機のようなものでApple Watchの登場を遠い昔に予見したもの。・・・しかしその大きさが予想外の巨大なものでちょっと笑ってしまう。このアルバムが出た数年後には薄型のデジタル時計を誰でもつけていたし、彼の予見した未来よりも現実のテクノロジーの方がずっと早かった、という図。

そういうイメージもあって特に日本ではこのバンドは割と不遇な評価を同時代には受けていた。ボウイーやマーク・ボランほどのスター性はなく、ブライアン・フェリーやスティーブ・ハーリィほどの異色さがない、器用貧乏のような印象だ。
しかしビル・ネルソンのギターは当時のどのギタリストよりも美しく、無駄がないメロディアスなものだった。
後の時代のニュー・ウェイブにかなりの影響を与えたのは間違いないだろう。

そのビー・バップ・デラックスのライブ盤をいきなり買って聴いたのが全ての始まりだった。曲もビル・ネルソンのギターもポップでカラフルだけどまさにタイトル通り「ライブの美学」にあふれたもの。
当時のロック・ギタリストとは一線を画する流麗な音色に痺れて、たちまちファンになった。そしてROCKHURRAHはビー・バップ・デラックスの他のアルバムを買い漁る・・・というわけにはいかなかった。
彼らは大手レコード会社、東芝EMIから全てのレコードが国内盤で出ていたけどリアルタイムで追いかけてたわけではなく、ファンになったのも解散後の話だ。
しかも地方都市なもんだからロクなレコード屋がなかったので、小倉中を探してもレコードは見つからない。一枚くらいは見つけたけど、それと先のライブ盤を擦り切れるほどに聴き込んだものだ。

かつての記事で書いた福岡の輸入レコード屋行きをする前の時代だったから、そこまで行動範囲も広くなかった。当時東京にいた兄に頼んで買ってもらい、帰省の時に受け取るというような事をして一枚一枚、どうにかして集めたもんだ。この頃のレコードにかけるエネルギーは今考えてもすごかったよ。
やがて全部のレコード、といってもたかが6枚のアルバムなんだけど、その全てを手に入れた。

大筋には関係ない話だけどここでひとつ。
ライブ盤の内袋には化粧したビル・ネルソンの横顔が写っていて非常にカッコイイ人だと思っていたんだが、これはあらゆる写真の中で最も写りが良い奇跡の写真を使っているという事が全部のレコードを手に入れて判明した。本来のビル・ネルソンはあごのしゃくれ方と目つきが特徴的で、心の中では「傷だらけの天使」に出てた頃のショーケンにちょっと似てる(上の写真、一番右)と思っていた。

左の写真がデビュー当時から現在に至るまでのビル・ネルソンの顔の変遷ね。
彼の音楽やギターに関する記事はたくさん出てくるけど、顔やファッション・センスについてあまり書く人がいないから、ウチらしくちょっと書いて見たよ。全盛期の頃はまるで70年代の芸人か明智小五郎をやってた時の天知茂か、という幅広ネクタイのスーツ姿、とてもこれでグラムロック出身者には見えないな。

ビー・バップ・デラックスの最後のアルバム「プラスティック幻想」はもうとっくにパンクもニュー・ウェイブも始まっていた1978年の作品だが、彼らのこれまでの音楽とはちょっと違っていて、ほとんどニュー・ウェイブと言ってもよい音楽が展開してゆく。冒頭の「電気じかけの言葉」はまるでラ・デュッセルドルフのようだし「新たな精密度」のギター・ソロはかつての美しいメロディよりも実験的でアヴァンギャルドなもの。トータルな完成度が非常に高いアルバム作りをするバンドと定評はあるが、中でもこのアルバムが彼らの最高傑作だと思っている。

さて、ようやくここで扉の写真にたどり着く。
ここまでの話が長かったにゃー。
ビー・バップ・デラックスを解散させた後のビル・ネルソンが次に始めたのがこのレッド・ノイズなるバンドだ。後期ビー・バップ・デラックスのキーボード奏者アンディ・クラーク、そしてビルの実弟でサックス奏者のイアン・ネルソンなどが参加してアルバム「Sound On Sound」(トップ画像)を1979年に発表した。
このバンドはビー・バップ・デラックスのラスト・アルバム「プラスティック幻想」の構想をさらに高密度で凝縮させたSFデジタル・パンクといった音楽で、これまでにないアグレッシブなものだった。

髪型も思い切ってバッサリ短くして楯の会みたいな軍服(というより学ランみたいなものか?)を全員で着用、その辺のイメージ戦略も今までとは違うからビックリした。
そこにはかつてのビル・ネルソンが得意としていた調和の取れたギター・ソロもなく、断片的な素材がそのまま短い楽曲に詰め込まれた印象があり、初めて聴いた時はその勢いに衝撃を受けたものだ。

専門のミュージシャンのサポートを受けずに彼自身がほとんどの楽器を担当した曲もあり、そのDIY精神が後の宅録ソロへ続く過程となっている。

「Sound On Sound」を一体どこで手に入れたのか、肝心なところを覚えてないが、このジャケットを見た瞬間に全身に電撃が走った。ラジカセとタイプライターと辞書でロボットを表現するとは一本取られたよ。
「まんが道」で藤子不二雄が水のグラスを通して見た机の上の文房具で未来都市の風景を描いた、というエピソードを思い出してしまった。
この写真は70年代の広告写真などで知られる十文字美信の撮影ということだが、松下電器によるもの。
実際に松下電器のナショナルだったかテクニクスだったかパナソニックだったかのポスターで使われていて、先に書いた友人K野の家に行く途中の電気屋の表に貼られていた。これを見て二人で「おぉ、ビル・ネルソン」と狂喜したものだ。

このジャケットが使われたのは確か輸入盤だけで、国内盤は真ん中にRED NOISEの文字だけが拡大されたシンプルなジャケットだった気がする。たぶん国内盤の発売元が東芝EMIなのでライバル松下のポスターなんか使っちゃいかんぜよ、というような事情だったのかね?違ってたらごめん。
この国内盤は一曲目「Don’t Touch Me!I’m Electric」にちなんで「触れないで!僕はエレクトリック」という恥ずかしい邦題だったなあ。ヘアカット100の「好き好きシャーツ」もひどいが、この時代の邦題やレコードの帯の謳い文句はかなりヘナチョコなので本当はそういう特集もしてみたいな。

書きたいことの数10%は削って高密度で凝縮させた文章にしたつもりだったが、さすがに付き合いの長いアーティストを書くと長くなってしまうな。前置きが長すぎて肝心のレッドノイズ部分がアッサリし過ぎ?
でも疲れたのでまた今度ね。

ふたりのイエスタデイ chapter05 / Orchestre Rouge

【ジャケ買いで中身も良かった、大好きな青春の一枚。】

ROCKHURRAH WROTE:

2014年正月から始めた新企画がこの「ふたりのイエスタデイ」シリーズなんだが、これはROCKHURRAH RECORDSの二人の運営者(大げさ)が思い出深い一枚のレコードや写真などを選んで、それにまつわるエピソードを書いてゆくという内容の記事だ。
いくつか連続でウチのブログを読んでいただければすぐにわかるんだが、とにかく70〜80年代の音楽ネタが満載のブログなので、このシリーズだけが特別にノスタルジックなわけではない。
メニューのところに「シリーズ記事」などと書いてて細かく分かれてる割にはそこまで細分化する必要もないんだが、まあ書いてる方の側の気分ということで使い分けてるだけ。

お盆休み真っ最中でも帰省するわけでもなくて、アクティブに出かけてるわけでもないROCKHURRAHとSNAKEPIPEなんだが、そもそもこのどんより具合の天気は何?というくらいに全然お盆っぽくない湿度満点の空模様。これじゃイヤになってしまうよね。

さて、久々にこの記事を書くに当たって選んだのが上のレコード・ジャケットだ。
ジャケットというのは絵画や写真だけの作品とは違って完全に正方形の中で展開するアートで、ほとんどの場合は絵や写真だけでなくアーティスト名やタイトルまでを含めたトータルなグラフィック・デザインだ。
ROCKHURRAHに限らず、古今東西でこのジャケット・アートワークに魅了された人は数多く存在しているに違いない。
もしかしたら中の音楽そのものには全然興味なくてジャケットの良し悪しだけでレコードを集めてるような人もいるかも知れないね。もし、美麗なレコード・ジャケットを集めた展覧会があったらぜひ行きたいものだが、過去にそういう企画はどこかであったのだろうか?実はそんなのはありきたりで、常に美術関連の事を考えているわけじゃないから知らないだけかも。
もしも世界のどこかレコード・ジャケット美術館みたいなのがあってキュレーター募集してたら立候補したいくらいだよ。
ん?わずか数行の間に3回も「もし」という言葉が入ってるぞ。ひどいもんだな。

話がそれたがそういうアートワークとしてのジャケットの好き嫌いという点では、このジャケットは大好きな類いになる。いかにも80年代のヘタウマみたいなプリミティブな絵柄なのに題材はグロテスクで好みにピッタリ。
描いているのはRicardo Mosnerというアーティストで(この人の事は今回特に書かないが・・・)、この素敵なジャケットのバンドが今回語りたいオルケストル・ルージュなのだ。
本当は個人的にはずっとこのバンドの事をオーケストラ・ルージュと呼んできてそれでも間違いというわけではないんだろうが、フランス読みにするとたいていはオルケストルと読んでる人が多いので仕方なくこう書くよ。うむ、しょっぱなから何か敗北感。屈辱的。

1970年代の最後を飾った音楽の大きな流れはパンク、そしてニュー・ウェイブへと続いていった。初期ニュー・ウェイブの頃は特に細かいジャンル分けもなかったんだが、そのうち登場するバンドたちの数が膨れ上がってさまざまな音楽スタイルが乱立するようになった。
紛らわしいのは当時と今とで同じ音楽を指すのに違うジャンル名があったり、欧米と日本で違うジャンル名になっていたり、この手の話は特に文献もないし、当時を知る人と現在ウィキペディアなどで情報を集めた人の話が食い違うのは当然という気がする。
おや?話が随分脱線してしまったが、こんな面倒な時に有効な便利な言葉があったよ、ポスト・パンク。80年代初期の大半のバンドについて語る時に「これはポスト・パンクのバンドで・・・」と言っておけば大体間違いないはず。このオルケストル・ルージュもおそらくポスト・パンクのバンドと言っておけば間違いないな。

80年代初期の表のムーブメントではエレクトロニクス・ポップ(テクノ・ポップ)やニュー・ロマンティック、2トーン・スカやファンカ・ラティーナなどがヒットチャートを賑わせていたが、それと同時期にイギリスではネオ・サイケ、ダーク・サイケ、ポジティブ・パンクと呼ばれる暗くて重苦しいシリアス路線の音楽が裏では着実に若者の心を掴んでいた。まれにヒットチャートの上位になったりもするが、この手のバンドの活動拠点はどちらかというとインディーズの小さな市場向きだったな。万人に受け入れられる音楽じゃなかったのは確かだからね。
そういう新しいバンド達に影響を与えた先駆者として必ず名前が挙がってくるのがスージー&ザ・バンシーズ、バウハウス、キリング・ジョークにエコー&ザ・バニーメン、ジョイ・ディヴィジョンなど。全て70年代後半にデビューしているが、これらの名前がメジャーなところだった。
ROCKHURRAHも御多分にもれずこれらのバンドに傾倒していって、特にジョイ・ディヴィジョンについては熱心に聴きまくったものだ。
イアン・カーティスの押し殺した声と素晴らしい楽曲の数々は今でも毎日のように聴いているほど。
遠く離れたイギリスで活動してるバンドだしイアン・カーティスがどんな人だったかも当時は知らない。だから彼が首吊り自殺をしたという記事を音楽雑誌で読んでも泣いたり悲しんだりは出来なかったが、大きな喪失感があった事だけは確か。

その後もROCKHURRAHはジョイ・ディヴィジョンっぽいという噂の別のバンドをどこからか探してきていくつも買ってみたが、そのほとんどは小粒で「これこそ探し求めていたもの」という域には達してないものばかり。
オルケストル・ルージュを知ったのもそのくらいの時期で、この頃は下北沢の有名なビデオ・レンタル屋のレコード・レンタル部門(支店)で働いていた名物店員だったな。休みや仕事をしてない時はほとんどどこかの輸入レコード屋に入り浸っているくらいのマニアだった時期だ。
このバンドを知った肝心な経緯は覚えてないんだがたぶん「フールズ・メイト」という音楽雑誌で「フランスのジョイ・ディビジョンと名高い」などと書かれていたから探していたんだろう。
当時は色んな方面のレコードを同時に探していたからすぐに出会えたわけではないんだが、全然関係ないような時に下北沢のレコファンで運命の出会いをした(大げさ)。当時住んでた部屋から最も近いレコード屋で見つけるとは。しかも中古で500円くらいで買ったな。

これがオルケストル・ルージュとの最初の出会いだ。一番上の写真にある「More Passion Fodder」というのが1983年に出た彼らの2ndアルバムになる。中古屋で買ったものだからもちろんリアルタイムではないにしろ、嬉しさに違いはない。
ずっと探していたものだったから小躍りして買い求め、大急ぎで家に帰って針を落とした。そして出てきた音はまさにドンピシャの理想のものだった。

このバンドは1981年くらいから84年くらいの短い期間にフランスで活動していたネオ・サイケのバンドでフランスのRCAからわずか2枚のアルバムを残して解散してしまった。もちろん日本盤などもなく、どこでも入手出来るほどの知名度はなかったため、運が悪ければ何年も手に入らなかったろう。もし見つかったら別に高額なわけでもないんだけどね。
日本語に訳せば「赤いオーケストラ」というこのバンド名、インターネット検索すれば今では一発で由来もわかるだろうが、そんなものない時代だから無知なROCKHURRAHは勝手に口紅楽団などと思っていたよ。まあそれでも別におかしくはないんだろうが。

ナチス・ドイツ占領下のヨーロッパに存在した、
ソビエト連邦に情報を流していたコミュニストの
スパイ網に対してゲシュタポが名付けた名称。

というのがオルケストル・ルージュの由来だそうだが、この辺もナチの強制収容所慰安婦施設から名前を取ったというジョイ・ディヴィジョンと似通ってるのかな?

このバンドのリーダーでヴォーカリストのテオ・ハコラはフランス人ではなく、アメリカ出身、しかもフィンランド人とスウェーデン人のハーフらしい。若くしてグアテマラ、スペイン、ロンドンとさまざまな職業をしながら放浪して、1980年にパリでオルケストル・ルージュを結成する。というのが略歴なんだが、一体いくつの国が出てきた?もう生まれついての国際人だね。

かなりのインテリなのは間違いないしその歌の内容も詩と言うよりは政治的なアジテーションとか演説の類いに近いもので過激。教師をしていた経歴もあるそうだから、言ってる内容もたぶんプロっぽいのか?
政治も海外の歴史も疎いROCKHURRAHなどは単に曲の良し悪しだけで音楽を判断するしかないが、意味がわかる人にとっては全然違う見解になるのかもね。

家に帰って針を落としたところから進んでなかったから話を戻すが、この2ndアルバムは数あるネオ・サイケの中でもROCKHURRAHが一番好きな大傑作。
特に1曲目「Seconds Grate」から「Where Family Happens」「Chief Joseph Heinmot Tooyalaket」まで切れ間なく続くこの3曲はいつ聴いても最高。曲の好みは人それぞれだから誰にもオススメはしないが、個人的にはパーフェクトなネオ・サイケが展開する。
ジョイ・ディヴィジョンに似ている部分はあるけど、完全なフォロワーとは全然違っていてオルケストル・ルージュならではの魅力が詰まっている。デビュー当時から現在に至るまでずっとヴァイオリンの音色を愛し続ける姿勢も本家ジョイ・ディヴィジョンにはないからね。

テオ・ハコラの歌い方にはかなり特色があって、カントリー&ウェスタンやロカビリーなどでするしゃっくりのような歌い方、ヒーカップ唱法に近いものがある。声質はイアン・カーティスというよりはバースデイ・パーティのニック・ケイブに近いものがあるな。

このバンドの1stアルバム「Yellow Laughter」はマンチェスターで録音、しかもプロデューサーはジョイ・ディヴィジョンで有名なマーティン・ハネットがやっている。このことからも「フランスのジョイ・ディヴィジョン」云々と言われてきたんだろうけど、こちらの方は端正にまとまった曲が多く、ROCKHURRAHとしてはよりエモーショナルな2nd、つまり今回特集した方が好みだった。
聴いた順番は1stの方が後だったのでややインパクトが薄かったせいもあるんだろうな。
しかしジャケットはこっちの方が有名で、上のYouTube(1stと2ndがカップリングされたCDらしい)でも「Yellow Laughter」のジャケットが使われている。

ある日、このバンドのライブ盤をレコード屋で見つけて買った夢を見たんだが、その日行った新宿のレコード屋で本当にライブ盤を見つけるという、まさに正夢な経験をしたこともある。ちゃんとした3rdアルバムではなくてどうやら自主制作盤のようで、出回ってる数も少ないはずだから本当に縁があったと思いたいよ。テレヴィジョンやジョイ・ディヴィジョンのカヴァーも入った、ファンならば絶対に聴いておきたい一枚だ。

オルケストル・ルージュが解散した後、テオ・ハコラはパッション・フォダーというバンドを結成したが、これは何とも形容がしがたい地味な音楽でサイケデリックとカントリー風味、トーキング・ヘッズっぽさがちょっとだけ見え隠れするけど、イマイチ理解しにくい代物。何曲か好きな曲はあるんだけど、この人の歌い方がどの曲も基本的に同じような字余りで、区別がつきにくい曲を量産していたという印象がある。 たぶんオルケストル・ルージュでいい曲を書いてた人がいなくなったのが原因だろうと推測する。
テオ・ハコラの確立されたスタイルがマンネリ化してしまうという最大の弱点ばかり強調されてしまった感じ。
4作目までは耐えて買ったがその後はあまりロックを聴かなくなった時期にかかってしまったので、ここでリタイアしたよ。

結局パッション・フォダーは長く続けた割には地味で時代に埋もれてしまったが、オルケストル・ルージュの方は今でも風化することなく(あくまで個人的にだが)輝いている。

今回のブログも長く書いた割には特に人々の興味を惹く部分がなくて、いよいよ文章もスランプ気味だなあ。夏だから仕方ない。涼しくなって来たらもう少しはマシになる予定。
ではまたオ・ルヴォワール。