Category Archives ふたりのイエスタデイ

【80年代のデペッシュ・モードが分かる映像集】

SNAKEPIPE WROTE:

最近はとんとご無沙汰だけれど、以前はライブハウスに行くのが大好きだったSNAKEPIPE。
ファンだったROBINが2011年に解散してしまったのが理由だね。
あれからもう6年経ってるとは…。
観に行く(聴きに行く)だけで、自分で楽器を弾いたことはほとんどない。
ROCKHURRAHは弦楽器が得意で、現在もギター数本が家にあるんだよね。
最近弾く機会はなくなっているけれど。
そのROCKHURRAHから教えを受け、少しだけウクレレに挑戦したことがあったっけ。
練習を重ね、「I Fought The Row」を弾けるまでになったのは嬉しかった。(笑)

もちろんウクレレの定番「あ〜あ〜あ、やんなっちゃった〜」も練習したけどね!(ぷっ)
中学生の頃に一度だけギターを練習したことあったけど、練習本の一番最初が「荒城の月」で、ちっとも楽しくなかったんだよね。
コードが簡単だから、という理由なのかもしれないけど、もう少し「弾ける喜び」が感じられたら続けられたのにね?
そんなSNAKEPIPEなので、楽器に関しては完全に素人!
それなのに、一度だけバンドを組んだことがあるんだよね。(笑)
今回はその経験を元に「ふたりのイエスタデイ」を書いてみよう。

高校生だった今から数千年前にタイムスリップしてみよう。(おおげさ)
美術部に所属していたSNAKEPIPEだけれど、当時の最先端だったニューウェーブにどっぷり染まっていた「とんがりキッズ」(死語)だった。
髪の毛は刈り上げ、文学と音楽(ニューウェーブ)の話に花を咲かせながら絵を描く女子高生。
美術部の同級生は皆同じ趣味を持った仲間で、放課後が楽しい時間だったなあ。
美術部の活躍する場といえば、文化祭!
どうしてそんな話になったのかは覚えていないけれど、「バンドをやろう」ということになった。
文化祭は美術部としての活動だけでも忙しいはずなのに、加えてバンドでも参加しようと考えるとは出しゃばり過ぎだよね。(笑)

SNAKEPIPE以外に他2人の美術部員に加え、もう1人ニューウェーブ好きの同級生が入って4人で即席のバンドが結成された。
皆すっかりやる気になり、2名がキーボード、ベースが弾ける人が1名、ドラムはリズムボックスという編成になる。
ニューウェーブ好きだった同級生がリズムボックスやキーボード類の機材を持っていたこと、美術部員の1人は元々バンドでベースを担当していたというのが理由なんだけど、即席にしては「ニューウェーブらしい」感じになってるよね?
そしてなんとSNAKEPIPEは楽器全般ができないので、ボーカルとして参加することになったのである。

ここでSNAKEPIPEは演出を考える。
照明を消し、演奏している自分たちに向かって花火の映像を映すことにしたのだ。
市のライブラリで16mmフィルムの花火映像を借り、高校にあった16mm映写機を使用することで実現できるからね。
花火映像は、SNAKEPIPEが16mmフィルムの映写資格を持っていたことで借りることができたはず。
そんな資格持ってたんだよ。(笑)
どうして花火にしたのかというとアンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」に印象的なシーンがあったから。
当時は古い映画をよく鑑賞していて、影響受けてたんだよね。

バンド名も考えたっけ。
「Orchestral Manoeuvres in the Dark」の長いバンド名が非常に気に入っていたので、負けないくらい長くて不条理な名前にしようと熟考したなあ。
その結果「Muslim For The Mind Strangeness」という名前にしたんだよね。
女子高生だったSNAKEPIPEの単なる言葉遊びで、宗教的な意味は全くないので4649!

肝心なのは「どの曲にするか」だよね。
これもSNAKEPIPEの独断だった。

The Stranglersの「All Roads Lead to Rome」という曲なんだけど…。
前述したようにギターが不在、そして当時がニューウェーブ全盛だったということを考慮しても、どうしてこの曲にしたのか不明だよね。(笑)
この「ささやき」のようなボーカルをSNAKEPIPEはどのように表現したのか?
しかも歌詞は「聞き取り」だったはずなので、苦労しただろうね。(笑)
唯一分かるのはタイトルにある「すべての道はローマに通ず」だけだからねえ。
他の友人達もよく賛成してくれたよ。

もう1曲はニューウェーブ界のお坊ちゃま集団Depeche Modeの「Meaning Of Love」だったね。

この曲もギターなしで全く問題ないよね?
バンドで演奏するにはボーカルが大人しいから、実際にはパンク風に叫んでいたと思う。
花火映像に染まりながらのデペッシュ・モードのパンク版。(笑)
この時の文化祭はバンド参加希望が多くて、審査を通過した数組だけが演奏できることになっていた。
その審査での一幕での出来事である。
選曲、演出、演奏全てが上手くいったと自画自賛していたけれど、実際には全く理解されなかった。
「照明を消す」という点にも高校側から難色を示されたし、映写機の準備などに時間がかかったのもマイナスだったのかもしれない。
田舎の高校だったから、というのももちろんあるだろうね。(笑)
当然のように審査は通らず、バンドはその時の1回限りで解散となった。(笑)
高校を卒業してかなりの年月が経ってから、同じ高校に通っていた同級生から「何がしたいのか分からない集団に見えた」と言われたことがある。
その人は数年経ってから分かってくれたらしいけど。(笑)

ニューウェーブの波は高校時代で終わり、SNAKEPIPEはそれ以降はパンクの道に進む。
やっぱりデペッシュ・モードをパンクで歌ったことが原因かな?(笑)
デペッシュ・モードに再会するのはそれから何十年も経った大貫憲章さん主催のロンドンナイトである。

カバー曲だけど、よりポップなダンスチューンに変身してるよね。(笑)
「これは?デペッシュ・モード!」
突然耳に飛び込んできた懐かしいメロディラインに、かつてニューウェーブに熱狂していた青春時代が蘇る。
やっぱり80年代いいわ!と改めて認識した瞬間だったね。

デペッシュ・モードは現在も活動を続けているようだ。
Wikipediaによれば、ここに来るまでには自殺未遂、薬物依存、アルコール中毒など「お坊ちゃま集団」とは無縁のはずの単語が並んだ人生を送っていたようだ。
そういった苦難を乗り越えてきたせいなのか、最近の音は80年代とはまるで別物!
あの頃のデペッシュ・モードを期待して聴くとびっくりしちゃうね。
それでも現役で続けている姿を見ることができたのは良かったよ。

80年代、デペッシュ・モードはヒット曲を連発した大スターだった。
SNAKEPIPEも好きな曲がたくさんあるよ!
最後はその中の1曲を載せて終わりにしようか。

ニューウェーブはやっぱり良いね!(笑)

【今回は珍しくROCKHURRAH自伝でパンクの王道を語ってみる。】

ROCKHURRAH WROTE:

このシリーズ企画「 ふたりのイエスタデイ」もずっと更新してなかったな、とさっき気付いた。
ROCKHURRAHが最後に書いたのも2年以上前の事だったよ。
これに限らずシリーズ記事が多くなりすぎて滅多に更新しない企画ばかり、継続が苦手分野なのかな。

「 ふたりのイエスタデイ」とは1枚のレコード、あるいは本の表紙でも映画チラシでも何でもいいから、とにかくそれにまつわる話でROCKHURRAHとSNAKEPIPEが過ごした80年代を思い出す、というような企画だった。
若い世代がどれだけ1980年代を認識してるのかは全く不明だが
「チャラチャラして明るく軽薄な時代、誰もが浮かれて踊っていた」
「その後バブル経済が崩壊してみんな滅亡」
それが全てだとはいくら何でも思ってないだろう。
しかしNHKのBSで再放送していた「80’s洋楽グラフィティ」で出て来るようなニュー・ウェイブのバンドはみんなその典型的な80年代のイメージで選曲されているね。 これじゃ誤解されても仕方ないよ。
全ての出来事が10年ひと括りなわけでもないし、どの時代にも陰と陽はあるに違いないが、その差が目に見えてハッキリしていてわかりやすかったのが80年代なんだろうかね。

何か文化論みたいな前置きだったが特にそんなつもりは全然ないし、しかも今日のはほとんど自伝風。
いきなり今回の記事だけ読んだ人にはさっぱりわからないに違いないが、大体この記事の後くらいの話だと思っててね。

北九州から東京に出てきた最初は小学校からの友人、U尾のアパートにちょっと居候してた。
仕事も住むところもまだ決まってなくて無計画、何とかなるだろうという甘い考えで出てきてしまったんだよね。
前の「chapter06」で出てきたK野と今回初登場のU尾、そしてROCKHURRAHの三人は同級生で、小学生の時は転入生トリオだった。
一番最初に北九州に越して来たのがROCKHURRAHなんだけど、二人はもっと後で越してきた。
どういった経緯で友達になったのか肝心なところは覚えてないが、中学、高校で離れ離れになった後でも夏休みや正月には集まって遊んだりしていた。
2人は早くから東京に出ていったから、彼らの勧めでROCKHURRAHは上京したのだ。

K野は渋谷パルコのカフェ&雑貨屋で働いててインテリア・デザイナー志望。
U尾はファイヤー通り近くのセレクト・ショップの店員だった。彼は小学生の作文で将来の夢というテーマがあった時に「ファッション・デザイナーになる」と書いて、その通りの生き方をしてきた。
この辺を当時歩いてた人だったら誰でも知ってるセレクト・ショップの先駆け、その支店でオリジナル・ブランドみたいなものを手がけてデザインして、自分で売ってたのだ。
K野も後にインテリア・デザイナーとなって、割と有名な店舗のデザインを手がけていたけど、この二人の行動力と周りの人脈はすごいものがある、と若きROCKHURRAHは感心していた。
と言うのはウソで、内心では「まだまだ自分は途上、そのうちきっと音楽の世界で名を上げてやる」みたいに思ってた。全員ジャンルが違うから対抗心とかは特になかったけど、まだ何者でもない自分に言い聞かせていたよ。
ただしROCKHURRAHの意味不明の自信は全然根拠もないし、名を上げるための何事も努力してない。要するにそんな道に進む準備も何もしてないんだよね。

やりたかったのは別にバンドでも歌手でもなくて、漠然とした考えではレコード屋の店主だった。
たかがレコード屋の店主になったところで店名に自分の名前でもつけない限り(例:山ちゃんレコード)「音楽の世界で名を上げてやる」とはならないと今は思うが(笑)、その時はなぜかカリスマ店主みたいなのに憧れたわけだ。しかもその時点ではまだレコード屋勤務の経験さえなかったのにね。

その頃U尾が住んでたアパートは六畳一間で風呂なし、トイレも流しも共同という絵に描いたような昭和の独身アパートで、新大久保から歌舞伎町に抜けるあたりにあった。しかも彼女と二人で住んでたので、そこに闖入してきたようなROCKHURRAHと三人で六畳、これはいくら何でも居候は大迷惑だろうというシチュエーションだったな。気さくでさっぱりした性格の彼女、Y里ちゃんにも色々迷惑かけたな、と今でも反省する。
結局、そこに居候してたのはごく短期間だったがその間に仕事も部屋も見つかるはずはなかった。
しかし自分のものを何も持ってないにも関わらず、居候のくせにレコードだけは買っていた。歩いて新宿のエジソンやジュクレコまで行けたから魔が差して、なけなしの金で買ってしまったよ。

その後、今まで一度も行ったことなかった街、下北沢でなぜか部屋探しをはじめて、すぐに住むところが決まってしまった。
数件の候補も何もあったもんじゃない。
不動産屋がROCKHURRAHの予算では一軒しか探してくれなかったのだ。まあその時点で収入もないわけだから当たり前だね。
しばらく放浪生活が続いて・・・とかあればいかにもROCKHURRAHらしいが、そんなに都合良いエピソードはなかったのだ。交友関係も狭かったからもうどこも泊まり歩けない状況だった。
で、見つかった場所は東北沢の駅から三分くらいの物件で風呂なし共同トイレの四畳半。
駅から近いだけが取り柄なのと二万円以下の安い家賃に惹かれて即決したよ。

昼間でも一切陽が差し込まない一階の日陰物件だったが、外壁一面に蔦が絡まってて敷地内も苔だらけ。パッと見ではかなり風情のある外観。逆にお洒落でさえある。
たった一口だったが一応ガスコンロも付いてて、玄関にはピンク電話があった。
ROCKHURRAHの部屋は玄関の横だから個人で電話契約してなくても、一応連絡はつくという安心があった。 まだ携帯電話がこの世にない時代だったもんね。

最近では滅多にないと思えるが、家賃の支払日になると大家が直接訪ねて来て、手渡しで家賃を払うという昔ながらのスタイルが懐かしい。安アパートなんだが管理人とかはいなくて税理士である大家が週一で掃除とかしに来るのだ。
下北沢まで歩いて行ける距離でこの家賃は当時でも滅多になかったよ。
茶沢通り(三軒茶屋と下北沢をつなぐ通り)沿いのすぐ近くにあった部屋なので、そのまま歩けばどんな方向音痴でも下北に着く。東北沢駅も真正面、ここまで駅チカ物件にはこの後も住んだ事がないので、一番交通の便が良かったのが最初に住んだここなんだよね。

非常にみすぼらしいけど、一応スーパーが歩いてすぐのところにあったし、アパートの目の前がコインランドリーという事で若手の一人暮らしにはかなり便利な場所だと言える。銭湯の場所がイマイチわからなかったが、洗面器を持って歩いてる人を尾行して独自に突き止めた。ライトなストーカーだね。
何だかとてもラッキーな東京生活スタートだったな。

やっと念願の一人暮らしを始めたが、この時のROCKHURRAHは実家から家財道具を全く運ばなくて、普通の意味での引っ越しではなく、本当に我が身ひとつでここにやってきた。
だから最初のうちは部屋にも何もなかったが、ここでまた登場した友人K野。
彼はこの頃、永福町に住んでて、この時すでに中古のポルシェに乗っていた。四畳半からそのポルシェに乗り、横浜まで飛ばしてくれた。
横浜にはずっと疎遠だった叔母が一人で住んでて、その人から要らない家財道具を貰える事になってたんだよね。疎遠なのであまり話す内容もなく、ナベややかん、食器にふとんくらいは貰えた記憶がある。

いわゆる家具もほとんど要らない暮らしだったが、家の近くが金持ち外人のたくさん住んでる代々木上原。真夜中に歩くと大型ゴミが捨ててあって、洋モノの電話台とかテーブルとか「アンティーク」とまではいかないが、日本の安っぽい合板家具などと比べたら断然本格派のを拾ってきたもんだ。
今では考えられないがその当時はこんなもん、結構その辺に落ちてたんだよ。
書けば書くほど情けなくなってしまうな。

それから真っ当な人には到底理解出来ないような超貧乏生活が始まったが、一番最初の仕事はなぜか日本橋で結婚式場のセッティングとかする「イベント設営」のバイト。
まだ東京の右も左もわからないのに、よく乗り継ぎしてこんな遠くに通ったな。
設営とか片付けはいわゆる力仕事なんだが、ROCKHURRAHは運良く、備品のメンテナンスのような仕事に才能を発揮した。ふすまの破れたところを目立たなく修繕するという高度なテクニックを教わったが、さすがに今ではまるっきり覚えてないぞ。

二番目は経堂(小田急線)でダイレクトメール封入作業。
これまた手先の器用さが求められる仕事で、周りがみんな同世代の学生ばかりだったから仲良くなって、仕事帰りに経堂の喫茶店に寄ったり、それなりに楽しかったな。会社の社員も柔らかい感じの人が多く、いい仕事だったんだが、短期のバイトだったのが残念。
年上の大学院生と仲良くなり、この時点でまだステレオを所持してなかったにも関わらず、もののはずみでレコードを借りたというバカな思い出がある。
しかもこっちはフランスのパンク・バンド、スティンキー・トイズのつもりだったのに、貸してくれたのは古いブリティッシュ・ロック・バンドのスプーキー・トゥースだったというすんごい誤解があって(笑)。頭文字だけは合ってるけども・・・。
いや、こっちの方が名盤だったとは思うけどね。
この後に働いた金でテクニクスのステレオを買ったけど、もはやレコードは返した後だったな。

そして三番目にやっと下北沢でレギュラーとなる仕事を見つけた。
街をブラブラしてたら面白そうな看板を見つけたのがきっかけ。手書きの横尾忠則みたいなペンキ塗りの看板がいかにも80年代キッチュ(今ではあまり使わないか)な古本屋だった。向かいには同じ店名の中古レコード屋もあった。
「ああこれはきっと好きな感じの店に違いない」と運命の出会いを感じて(この時点でまだこの店がどんな店かも知らずに)面接の申し込みをしに中に入ったら、運がいいことにちょうど社長が店にいて、その場で即決採用してくれた。
ROCKHURRAHは下北沢周辺に十年くらい住んだが、この店がそのスタート地点だったのだ。
ちなみに周辺というのは下北の隣駅、東北沢と世田谷代田で、憧れの下北沢は家賃が高すぎてどうしても手が出なかったのだ。
東北沢の安アパートは最初の二年で出て、その後は世田谷代田の環七近くに四年、さらに駅前あたりに四年、同じ町で引っ越してまで住んでる。そこまで世田谷代田が良かったかという事はまるでなく、単に下北沢に徒歩で行けるというだけが基準だったのだ。今はどうなってるのか知らないが小田急線の近隣、梅ヶ丘や豪徳寺には一応ある駅前商店街が世田谷代田には皆無だったからなあ。

さて、この古本屋は最初は下北沢に二店舗と笹塚に支店がある一応のチェーン店で、当時の下北沢を歩いてた人だったら誰でも知っている有名店だったが、ROCKHURRAHが在籍しているほんの数年で下北沢に五店舗、三軒茶屋、吉祥寺まで怒涛の開店を続けていた。恐ろしい経営手腕だな。

朝の10時から開店して夜中の1時までの店だったが、ROCKHURRAHは夕方6時からの遅番に配属された。
最初は古本屋の勤務で一緒に入ってたのが広島出身のK藤さんというややどもり気味の猫背の人だった。
割と地味な学生風の外観だったから知らなかったが、実は有頂天のケラが主催してたナゴム・レコードよりレコードも出してたインディーズのミュージシャンだった事がわかった。
欧米のパンクもニュー・ウェイブも大得意なROCKHURRAHだけど、日本のインディーズはそこまで聴かなくて、ナゴムのバンドもほとんど知らなかったんだよ。
このK藤さんはその後に伊丹十三監督の「タンポポ」や黒沢清監督の「ドレミファ娘の血は騒ぐ」など、映画にも出演して強烈なキャラクターを発揮していたが、東京で最初のうちに働いた場所で多少は有名人と関わっていたとはビックリだ。

そのうち古本屋の向かいにある二号店の勤務になったが、こちらは中古レコードとビデオ・レンタル(当時はまだDVDではなかった)の店だった。
こちらでお世話になったのは劇画家、松森正のアシスタントだったというF戸さんという人。
松森正は80年代には知る人ぞ知るような過去の存在だったが、70年代に「木曜日のリカ」という当時では珍しい女性スナイパーが主人公の劇画を描いてたな。子供の時にこのコミックスを所持していたので、その背景に関わっていたかも知れない人と働けるのは光栄な事だった。
F戸さんはその当時は漫画を描いてたのかどうかは不明だが、とても優しい大人の雰囲気の人だった。

やっと目標の一端、中古ではあるがレコード屋の一員になれたのでここの仕事はとても楽しかった。
四年くらい働いていたのでその間に同僚も随分替わったが、みんなとても個性的で何かを目指してる集まり。仲良くて毎日のように下北で飲んでたのが懐かしい。

  • 少年誌に漫画を描いてた(ほとんど無名だったが)宮崎出身のS谷さん。ムードメーカーで仲間内のリーダー的存在だったな。
  • 埼玉出身の絵に描いたようなパンク・ロッカーでROCKHURRAHと音楽的に一番近いA島、随分年下だったんだけど、彼とは家も近かったからレコードの貸し借りとか頻繁にしてたな。インディーズのパンク・バンドやノイズのバンドを掛け持ちしてたけど、バンド名は忘れた(薄情)。
  • 弟が川崎ヴェルディの有名なサッカー選手というT田、彼もパンク・バンドでベーシストをやってたので話が合ってたがVAPレコードに就職が決まり、なぜか福岡に転勤になってしまった。
  • 辞めた後で仲良くなって、泊りがけでいつも遊んでたM山。全然パンクでもニュー・ウェイブでもない専修大学の学生だったが、顔がなぜかジョニー・サンダースに激似というギャップが激しい男だった。東京で最も仲良くしてたし、この後のROCKHURRAHの転機となるきっかけが彼だったな。
  • 北海道出身でノイバウテンなどのノイエ・ドイッチェ・ヴェレとおニャン子クラブを偏愛する変わり者、H。同じ二号店の勤務だったので最も長い時間一緒にいたな。

他にも個性的な人間が何人もいて、常に5人以上とかで週に三回は下北沢で飲んでたな。
その後、一人二人と辞めていって離れ離れになってしまい、連絡とかもしてないから、彼らが今どこで何をしているのかも知らないんだけど、同時代の下北沢で素晴らしいメンツに出会った事が後の人生に全く活かされてないのが悔やまれて仕方ない。
薄情な自分だったから自業自得だけどね。

今回、扉絵にした2枚のシングルはどちらもその下北沢で入手したもの。
80年代がなんたらかんたら、などといつも言ってるくせしてどちらも70年代モノ、ただし入手したのは80年代というだけだよ。
しかもいつも敢えてヒネたのを持って来たがるROCKHURRAHには珍しく、王道中の王道アイテム。
パンク好きな人にはわざわざ説明するまでもない宝箱アイテムだな。

「ゼルダの伝説」で言うならばこのBGMが鳴るくらいのシロモノ。

ラモーンズの方は他でもない、この働いてた中古レコード店で手に入れたもの。
Promo Copy盤というものでこの大名曲のステレオとモノラルがA、B面に収録されているヴァージョン。これが珍しいのかそうでもないのかはROCKHURRAHよりも世の中の人の方が詳しいんだろうけど、個人的にはお宝の一枚である事には違いない。
前述のF戸さんに頼み込んで社販で購入したもの。
当時はまだそこまでプレミアはついてなかったように記憶するけど。

ダムドの伝説の一枚は全パンク・ロッカー垂涎のステータス・シンボルだね。
上に書いた店で働いていた時のこと。早番と遅番の間にあまり接点はなかったんだけど、交代時に少し会話を交わす程度。
その店の店舗ではなく事務所で働く女性が何人かいて、これも単なる事務員ではなく音楽や映像に暁通しているタイプが多かった。
その中の一人となぜかいきなり「ドクターズ・オブ・マッドネス持ってない?」などという大変にマニアックな会話になったのを今でも覚えてる。
70年代のイギリス、グラム・ロックやパブ・ロックがあり、それがパンクへと発展するような微妙な時代に活躍したバンドで、リチャード(キッド)・ストレンジというアクの強いヴォーカルがメインだった。デビュー当時のセックス・ピストルズを前座にツアーしてた事もある。
ROCKHURRAHは三枚のアルバムとシングルを所持していたが、メジャー・レーベルから出てた割にはこの時代には既に入手困難なレコードで、日本での知名度も低かった。
ヴァイオリンが活躍するバンドで歌もエモーショナル、大好きだった初期コックニー・レベルとオーバーラップする部分があって、好んで聴いていたのだ。
そんなバンドが気軽に日常会話で出てくるところが素晴らしい、ああ80年代の下北沢は良かったなあ。
同僚の暗黒ネオサイケ男(これまた割と有名なバンドやってた)N田といつの間にかいい仲になり、電撃的に二人で辞めていったと朧げながら記憶する。名前の記憶力が割といいROCKHURRAHなんだが、この人の名前はなぜか思い出せない。

で、ダムドの方はこの人の同僚でまた別の人。上に書いたエピソードは特に関係なかったな。
京都出身で確かROCKHURRAHよりも年上の短髪女性、S見さんと言ったな。
昔、ストラングラーズ来日の時にジャン・ジャック・バーネルのベースギターが頭に当たったというキズと武勇伝を持つ人で、あまり話した覚えはないがその印象が強烈に記憶に残ってるよ。
実家から松茸とか筍とか送られてくるという話を聞いた事があるから、きっといいトコのお嬢さんだったのかな?
この人が所有していたダムドのレコードを頼み込んで譲ってもらったのだ。国内盤シングルはたぶんこの当時でも伝説価格のレコードだったはずだが、破格の値段で譲って貰えた。
この頃はまだ若くて社交知らず、ロクなお礼もしなかったけど、今でも忘れないで感謝し続けています。

邦題「嵐のロックンロール」と名付けられたこの曲をウチのブログで語ったのは何度目だろう?その時代の映像はそんなに残ってないからせめて違うヴァージョンにするよ。
うんうん、このモノクロ・ビデオ、ROCKHURRAHも持ってたな。
ふざけた見た目だが意外と喧嘩っ早いキャプテン・センシブルの怒りシーンね。こういうトラブルにも場馴れしたライブ・バンドだなと思うよ。
映画「地獄に堕ちた野郎ども」は観に行けなかったが来年2月にDVDが出るのでそれで我慢しよう。

この店がどんどんつまらない方向性になってしまい、仲間も散り散りになってしまったから数年でROCKHURRAHも辞めてしまった。
その後は別の中古レコード屋でレコード洗いという珍しいバイトしたり、有名な廃盤屋にも少しだけ在籍(BGMが大音量過ぎて耳が危なくなった)したり、あまり長く続かないような仕事をしたが、それからは突然大きく進路を変えてなぜか全然違う仕事を始めてしまう。
この辺は今回にはあまり関係ないからまた別の機会に書くとしよう。

さて、延々と書いてきたどこにでもある自伝だが、今日は世田谷区編までとしよう。
面白くも興味深くもない記事だったが、まあ出来の良くない日記だとでも思ってね。

勝手に書いてきた元・仲間たちが今でも音楽に関わって生きているのかどうかは知らないけど、今でも若気の至りのまんまで生きてる、名もないパンクロッカー(未満)だったROCKHURRAHはここにいるよ。

ではまた、さらばシモキタ(大げさ)。

【お菓子のブラマンジェを使った50’Sっぽいレコード・ジャケット】

SNAKEPIPE WROTE:

4月29日は昭和の日!
昭和をこよなく愛するROCKHURRAH RECORDSにとっては嬉しい祝日だね。(笑)
今回のブログは昭和にちなんで、当ブログのカテゴリーである「ふたりのイエスタデイ」にしよう!
ROCKHURRAHとSNAKEPIPEの思い出を混ぜながら、80年代を語る企画なんだよね。
そういえば未だにテレビでイチゴを特集したような番組のBGMとして、「ふたりのイエスタデイ」が流れているのを耳にするんだよね。
ストロベリー・スウィッチブレイドだからっていうのは分かるけど、かなり短絡的で古いよね。(笑)
バレンタインデーの特集の時には「バレンタイン・キッス」(国生さゆり)が流れるし。
「ふたりのイエスタデイ」が1984年、「バレンタイン・キッス」は1986年だって。
80年代の、昭和の文化は根強いなー!

今日の特集は「ブラマンジェ」について書いてみようと思う。
ブラマンジェといってもお菓子のブラマンジェじゃないからね!
そう書いてはみたものの、当時はそのバンド名がお菓子の名前から来ているなんて全然知らなかったよ!
時代は昭和。
情報収集は雑誌かラジオ、もしくはレコードについている解説だけ。
今のようにインターネットで簡単に検索ができるお手軽な時代ではなかったからね!

初めてブラマンジェを聴いたのは、FMラジオだった。
当時はFM番組の雑誌を購入し、毎日の放送内容をチェックし、ニューウェーブ系の番組は必ず録音していたSNAKEPIPE。
いわゆるエアチェックですな!(笑)
タイマー機能が付いたステレオを持っていたわけではないので、時間になるとステレオの前に座り、録音ボタンを押し、テープの長さを気にしながら音に集中して過ごしていた。
昭和の人なら経験あると思うけど、カセットテープが途中で切れそうになると、調整しながらフェードアウトするように音量絞ったり。
慌ててB面にかえて、また録音ボタンを押したり。
毎日のように録音していたカセットテープは、一体何本あっただろう。
SNAKEPIPEは学生だったので、レコードも雑誌もそんなに買えるお金はなかったからね。(笑)
FMラジオでニューウェーブを勉強していたってことになるね。

実を言うと、聴いた瞬間から「好き!」って思ったバンドというわけではないブラマンジェ。
一番ピンときたのは、そのタイトルだったんだよね。
「Blind Vision」という、逆説的な言い回しに興味を持ったわけ。
簡単に訳すと「盲人の映像」とか「盲者の幻想」とでもいうのか。
ふたりのイエスタデイ chapter02」の中でスターリンについて書き、文学少女だったことも告白しているSNAKEPIPE。(ぷっ!)
昭和の時代は文字と音だったんだな、と改めて思う。
インターネットのある今は映像(画像)が主体になっているもんね。
映画を字幕で観られない人が増えるのも当然かな?(笑)

ブラマンジェを知った頃、美術の授業で「レコード・ジャケットを作る」という課題があった。
皆、自分が好きなバンドや歌手(?)をテーマにした作品を作ったはずだ。
その時SNAKEPIPEが選んだのがブラマンジェだった。
「Blind Vision」をテーマにした絵を描きたかったんだよね!

なんと2週連続でROCKHURRAHが「言葉から画像を作成」してくれることになった!
先週は鳥飼先生の作品「樹霊」の中に出てくる、私市康男が撮影した写真を想像で作成し、今週はSNAKEPIPEの作品を再現するとは!
毎週のようにありがとう、ROCKHURRAH!(笑)
またもや「こんな感じで」と注文して、作ってくれたのがこちら。

 

かなり忠実に再現してもらって嬉しい!(笑)
ドレスを着たスキンヘッドのマネキンとダンスする男性。
マネキンには目隠しがされていて、タイトルの「Blind Vision」を表している。
描いたのは水彩画だったんだけど、油絵っぽい仕上げにしていたっけ。
授業での評価はどうだったのか覚えてないけど、80年代っぽいよね?
懐かしいなあ!(笑)

よく聴いているインターネット・ラジオで聴き覚えのある曲が流れてくる。
インターネット・ラジオでは誰の何という曲か、がクレジットされるので非常にありがたい。
見てみるとブラマンジェ、と書いてある!
そうだった、この曲だった、と改めて認識する。
YouTubeで検索して出てきたのが上の映像ね。
どんな人達がやっていたのか初めて知ったよ。(笑)
今聴いても、なかなか良いと思う。
ちょっとデッド・オア・アライブっぽいダンス・チューンだよね!

ブラマンジェは1979年にイギリスのミドルセックスで結成されたバンドで、メンバーの離脱により男2人組のデュオだったことも初めて知った。
ソフト・セルデペッシュ・モードも入っていたコンピレーションアルバムに参加したことで、デビューのきっかけをつかんだという。
80年代には2枚のゴールド・ディスクを発表しているというから、かなり売れていたバンドだったんだね。
ちなみに89年以前のゴールド・ディスク認定基準は50万枚以上の売上ということになっているというから、余計にすごい!

上の映像もゴールド・ディスク「Happy Families」からのシングル・カット。
中東っぽいメロディが印象的だよね!
音を流していると、横からROCKHURRAHが「シンプル・マインズの曲に似てる」という。

確かに似てるかも!(笑)
ちなみにブラマンジェは1982年、シンプル・マインズは1980年ってことでシンプル・マインズのほうが早いみたいね。
それにしても、30年以上も前の曲のことを語り、新しい発見をするのって楽しいね。(笑)

ブラマンジェは一度解散した後、2006年に再結成し現在も活動を続けているようだ。
50代、60代になってもバンドやってるってすごいよね!
頑張って欲しいと思う。

これからも個人的な思い出と共に80年代を語っていこう。
次回の「ふたりのイエスタデイ」もお楽しみに!(笑)

【今見ても意味不明のレコードジャケット。その謎に惹かれるんだよね】

SNAKEPIPE WROTE:

SNAKEPIPEとROCKHURRAHがこれまでの人生において好きだったことを語っていく「ふたりのイエスタデイ」。
過去恥部的な企画のせいか、なかなか書き辛いのが実情なんだよね。
なるべく恥ずかしくないように努力すれば大丈夫かな?(笑)

天気予報と時刻を知る目的のため、朝だけはテレビをつけるけれど、それ以外の時間はつけるとしたらラジオである。
以前何かの記事にも書いたけれど、最近はインターネットラジオでパンクか80年代ニューウェイブのチャンネルを聴くことが多い。
かつて大好きだったあの曲、あのバンド。
最近は人の名前や映画のタイトルをすぐに思い出せなくなっているのに、どうして80年代のバンドと曲名はあっさり口をついて出てくるんだろう。
若いうちに勉強しておいたほうが良い、というのがよく解るね。(笑)
今日はそんな大好きだったバンドの中からThe Art Of Noiseについて書いてみよう。

ここからはカタカナ表記でアート・オブ・ノイズと書いていくのでよろしく!
アート・オブ・ノイズって何?という人のために、少し説明をしてみようか。
などと大それた書き方をしてしまったけれど、当時はほとんど情報がなくて「トレヴァー・ホーンのZTTレーベルからデビューした謎のバンド」というような紹介しかされていなかった。
トレヴァー・ホーンって大ヒット曲「ラジオスターの悲劇」で有名なバグルスのリーダーね。
最初は覆面バンドで、誰がバンドのメンバーなのか全く知られていなかったんだよね。
現在では、例えばWikipediaにもメンバーについての情報があるので、SNAKEPIPEも今回調べて初めて知ったことばかり。(笑)
特にメンバーや使用していた機材についての知識がなくても、その革新的な音楽には聴いた瞬間から魅了されてしまったのである。

トレヴァー・ホーン発明と言われる
「オーケストラヒット」や、
当時1000万円以上したサンプラー「フェアライトCMI」によって作り出されたサウンド・コラージュと、
当時最新鋭の技術であった「サンプリング」を駆使して、車のエンジン音や物を叩く音など
身のまわりのノイズを再構築することで
音楽に仕立て上げた「騒音の芸術」

いやはや、文章で表現するとこんな感じになるんだね。(笑)
「におい」や味と同様に、音楽についても実際に聴いてみないとわからないと思うけど、実験的なエレクトリック・ミュージックだということは分かるよね。
アート・オブ・ノイズの場合は、そんな機械的なイメージに文学的要素をプラスしたため、知的な音楽集団というイメージになったんだよね。
「afraid」「close」「fear」などのネガティブな単語を使ったタイトルにも興味を持ったことを覚えている。

Wikipediaからの受け売りだけど、グループ名は、イタリア未来派の画家・作曲家・楽器発明家 ルイージ・ルッソロの論文「騒音芸術(Art Of Noises)」から採用されているという。
ちなみにレーベル名である「ZTT」もイタリア未来派の詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティのサウンド・ポエム・タイトル「Zang Tumb Tumb」や「Tuuuum」という単語から影響を受けているとのこと。
サウンド・ポエムってなんだろう?
調べてみると「意味を拒絶した音の響きだけで成り立たせようと試みる詩」で、ダダイストのH.バルやシュルレアリストのA.アルトーは純粋な音響詩を試みているらしい。
これってもしかしたら先週の「映画の殿」で書いた
Digue dondaine,digue dondaine,
Digue dondaine, digue dondon!
みたいな感じなのかも?
意味を拒絶、という定義に当てはまるのかどうか分からないけどね。

最初に聴いて衝撃を受けたSNAKEPIPEは、すぐにLPを購入する。
「Who’s Afraid of the Art of Noise?」、邦題は「誰がアート・オブ・ノイズを…」だった。
どうしてこの邦題になったのか不明だけど、このタイトルにも文学的な匂いを感じていたSNAKEPIPE。
当時は文学少女だったから反応したんだろうね。(笑)

文学的と書いたけれど、実はほとんど歌詞はなく、インストゥルメンタルな曲ばかり。
実験音楽に触れたのは初体験だったけれど、すんなり馴染んだのはリズムとメロディラインがはっきりしたポップなチューンが多かったからだろうね。(この表現は古めかしい!)

当時はミュージック・ビデオを見る機会は限られていたので、上のビデオも初めて見たよ。
どこで撮影したんだろうか。
まるで「映画の殿 16号」 で特集したタルコフスキーの「ストーカー」の中に出てくるような場所だよね。
やりたいことはよーく分かるんだけど、撮影技術がついていっていない感じの、少し残念なビデオ。
もうちょっとアートにできたと思うけどなあ。


実はアート・オブ・ノイズが来日した時、長年来の友人Mと一緒にライブに行ってるんだよね。(笑)
Wikipediaによると1986年日本青年館で東京公演とあるので、多分それを観たんじゃないかな?
あまりはっきり覚えていないけれど、上の画像にある仮面が舞台の上部に飾られた真っ暗な中でのライブだったような?
そのため本当に今、ここで演奏しているのか不明で、もしかしたらレコードをかけていても分からないような状態だった感じ。
なんだかせっかく出かけて行ったのに、肩透かしを食らった気分だったっけ。 (笑)

数年してからテレビから聴いたことがある音楽が流れてくる。
そう、日本ではもうすっかりお馴染み、Mr.マリックのテーマとして認知されてしまった「Legs」である。
あの知的な文学性を持ったアート・オブ・ノイズが、ハンドパワーのマジシャンに採用されるとは意外だったよ。(笑)
手品師の音楽といえばポール・モーリアの「オリーブの首飾り」を思い出すけれど、同じようなイメージがつくのはちょっと残念!

トレヴァー・ホーンは2010年に大英帝国勲章を授与されているという。
現在はThe Producersというバンドで、かつて自分が関わった曲のカヴァーを演奏しているみたい。
もう一度何か世間をあっと言わせるようなことを仕掛けてくれないかな?