ふたりのイエスタデイ chapter10 / SETAGAYA 80’s

【今回は珍しくROCKHURRAH自伝でパンクの王道を語ってみる。】

ROCKHURRAH WROTE:

このシリーズ企画「 ふたりのイエスタデイ」もずっと更新してなかったな、とさっき気付いた。
ROCKHURRAHが最後に書いたのも2年以上前の事だったよ。
これに限らずシリーズ記事が多くなりすぎて滅多に更新しない企画ばかり、継続が苦手分野なのかな。

「 ふたりのイエスタデイ」とは1枚のレコード、あるいは本の表紙でも映画チラシでも何でもいいから、とにかくそれにまつわる話でROCKHURRAHとSNAKEPIPEが過ごした80年代を思い出す、というような企画だった。
若い世代がどれだけ1980年代を認識してるのかは全く不明だが
「チャラチャラして明るく軽薄な時代、誰もが浮かれて踊っていた」
「その後バブル経済が崩壊してみんな滅亡」
それが全てだとはいくら何でも思ってないだろう。
しかしNHKのBSで再放送していた「80’s洋楽グラフィティ」で出て来るようなニュー・ウェイブのバンドはみんなその典型的な80年代のイメージで選曲されているね。 これじゃ誤解されても仕方ないよ。
全ての出来事が10年ひと括りなわけでもないし、どの時代にも陰と陽はあるに違いないが、その差が目に見えてハッキリしていてわかりやすかったのが80年代なんだろうかね。

何か文化論みたいな前置きだったが特にそんなつもりは全然ないし、しかも今日のはほとんど自伝風。
いきなり今回の記事だけ読んだ人にはさっぱりわからないに違いないが、大体この記事の後くらいの話だと思っててね。

北九州から東京に出てきた最初は小学校からの友人、U尾のアパートにちょっと居候してた。
仕事も住むところもまだ決まってなくて無計画、何とかなるだろうという甘い考えで出てきてしまったんだよね。
前の「chapter06」で出てきたK野と今回初登場のU尾、そしてROCKHURRAHの三人は同級生で、小学生の時は転入生トリオだった。
一番最初に北九州に越して来たのがROCKHURRAHなんだけど、二人はもっと後で越してきた。
どういった経緯で友達になったのか肝心なところは覚えてないが、中学、高校で離れ離れになった後でも夏休みや正月には集まって遊んだりしていた。
2人は早くから東京に出ていったから、彼らの勧めでROCKHURRAHは上京したのだ。

K野は渋谷パルコのカフェ&雑貨屋で働いててインテリア・デザイナー志望。
U尾はファイヤー通り近くのセレクト・ショップの店員だった。彼は小学生の作文で将来の夢というテーマがあった時に「ファッション・デザイナーになる」と書いて、その通りの生き方をしてきた。
この辺を当時歩いてた人だったら誰でも知ってるセレクト・ショップの先駆け、その支店でオリジナル・ブランドみたいなものを手がけてデザインして、自分で売ってたのだ。
K野も後にインテリア・デザイナーとなって、割と有名な店舗のデザインを手がけていたけど、この二人の行動力と周りの人脈はすごいものがある、と若きROCKHURRAHは感心していた。
と言うのはウソで、内心では「まだまだ自分は途上、そのうちきっと音楽の世界で名を上げてやる」みたいに思ってた。全員ジャンルが違うから対抗心とかは特になかったけど、まだ何者でもない自分に言い聞かせていたよ。
ただしROCKHURRAHの意味不明の自信は全然根拠もないし、名を上げるための何事も努力してない。要するにそんな道に進む準備も何もしてないんだよね。

やりたかったのは別にバンドでも歌手でもなくて、漠然とした考えではレコード屋の店主だった。
たかがレコード屋の店主になったところで店名に自分の名前でもつけない限り(例:山ちゃんレコード)「音楽の世界で名を上げてやる」とはならないと今は思うが(笑)、その時はなぜかカリスマ店主みたいなのに憧れたわけだ。しかもその時点ではまだレコード屋勤務の経験さえなかったのにね。

その頃U尾が住んでたアパートは六畳一間で風呂なし、トイレも流しも共同という絵に描いたような昭和の独身アパートで、新大久保から歌舞伎町に抜けるあたりにあった。しかも彼女と二人で住んでたので、そこに闖入してきたようなROCKHURRAHと三人で六畳、これはいくら何でも居候は大迷惑だろうというシチュエーションだったな。気さくでさっぱりした性格の彼女、Y里ちゃんにも色々迷惑かけたな、と今でも反省する。
結局、そこに居候してたのはごく短期間だったがその間に仕事も部屋も見つかるはずはなかった。
しかし自分のものを何も持ってないにも関わらず、居候のくせにレコードだけは買っていた。歩いて新宿のエジソンやジュクレコまで行けたから魔が差して、なけなしの金で買ってしまったよ。

その後、今まで一度も行ったことなかった街、下北沢でなぜか部屋探しをはじめて、すぐに住むところが決まってしまった。
数件の候補も何もあったもんじゃない。
不動産屋がROCKHURRAHの予算では一軒しか探してくれなかったのだ。まあその時点で収入もないわけだから当たり前だね。
しばらく放浪生活が続いて・・・とかあればいかにもROCKHURRAHらしいが、そんなに都合良いエピソードはなかったのだ。交友関係も狭かったからもうどこも泊まり歩けない状況だった。
で、見つかった場所は東北沢の駅から三分くらいの物件で風呂なし共同トイレの四畳半。
駅から近いだけが取り柄なのと二万円以下の安い家賃に惹かれて即決したよ。

昼間でも一切陽が差し込まない一階の日陰物件だったが、外壁一面に蔦が絡まってて敷地内も苔だらけ。パッと見ではかなり風情のある外観。逆にお洒落でさえある。
たった一口だったが一応ガスコンロも付いてて、玄関にはピンク電話があった。
ROCKHURRAHの部屋は玄関の横だから個人で電話契約してなくても、一応連絡はつくという安心があった。 まだ携帯電話がこの世にない時代だったもんね。

最近では滅多にないと思えるが、家賃の支払日になると大家が直接訪ねて来て、手渡しで家賃を払うという昔ながらのスタイルが懐かしい。安アパートなんだが管理人とかはいなくて税理士である大家が週一で掃除とかしに来るのだ。
下北沢まで歩いて行ける距離でこの家賃は当時でも滅多になかったよ。
茶沢通り(三軒茶屋と下北沢をつなぐ通り)沿いのすぐ近くにあった部屋なので、そのまま歩けばどんな方向音痴でも下北に着く。東北沢駅も真正面、ここまで駅チカ物件にはこの後も住んだ事がないので、一番交通の便が良かったのが最初に住んだここなんだよね。

非常にみすぼらしいけど、一応スーパーが歩いてすぐのところにあったし、アパートの目の前がコインランドリーという事で若手の一人暮らしにはかなり便利な場所だと言える。銭湯の場所がイマイチわからなかったが、洗面器を持って歩いてる人を尾行して独自に突き止めた。ライトなストーカーだね。
何だかとてもラッキーな東京生活スタートだったな。

やっと念願の一人暮らしを始めたが、この時のROCKHURRAHは実家から家財道具を全く運ばなくて、普通の意味での引っ越しではなく、本当に我が身ひとつでここにやってきた。
だから最初のうちは部屋にも何もなかったが、ここでまた登場した友人K野。
彼はこの頃、永福町に住んでて、この時すでに中古のポルシェに乗っていた。四畳半からそのポルシェに乗り、横浜まで飛ばしてくれた。
横浜にはずっと疎遠だった叔母が一人で住んでて、その人から要らない家財道具を貰える事になってたんだよね。疎遠なのであまり話す内容もなく、ナベややかん、食器にふとんくらいは貰えた記憶がある。

いわゆる家具もほとんど要らない暮らしだったが、家の近くが金持ち外人のたくさん住んでる代々木上原。真夜中に歩くと大型ゴミが捨ててあって、洋モノの電話台とかテーブルとか「アンティーク」とまではいかないが、日本の安っぽい合板家具などと比べたら断然本格派のを拾ってきたもんだ。
今では考えられないがその当時はこんなもん、結構その辺に落ちてたんだよ。
書けば書くほど情けなくなってしまうな。

それから真っ当な人には到底理解出来ないような超貧乏生活が始まったが、一番最初の仕事はなぜか日本橋で結婚式場のセッティングとかする「イベント設営」のバイト。
まだ東京の右も左もわからないのに、よく乗り継ぎしてこんな遠くに通ったな。
設営とか片付けはいわゆる力仕事なんだが、ROCKHURRAHは運良く、備品のメンテナンスのような仕事に才能を発揮した。ふすまの破れたところを目立たなく修繕するという高度なテクニックを教わったが、さすがに今ではまるっきり覚えてないぞ。

二番目は経堂(小田急線)でダイレクトメール封入作業。
これまた手先の器用さが求められる仕事で、周りがみんな同世代の学生ばかりだったから仲良くなって、仕事帰りに経堂の喫茶店に寄ったり、それなりに楽しかったな。会社の社員も柔らかい感じの人が多く、いい仕事だったんだが、短期のバイトだったのが残念。
年上の大学院生と仲良くなり、この時点でまだステレオを所持してなかったにも関わらず、もののはずみでレコードを借りたというバカな思い出がある。
しかもこっちはフランスのパンク・バンド、スティンキー・トイズのつもりだったのに、貸してくれたのは古いブリティッシュ・ロック・バンドのスプーキー・トゥースだったというすんごい誤解があって(笑)。頭文字だけは合ってるけども・・・。
いや、こっちの方が名盤だったとは思うけどね。
この後に働いた金でテクニクスのステレオを買ったけど、もはやレコードは返した後だったな。

そして三番目にやっと下北沢でレギュラーとなる仕事を見つけた。
街をブラブラしてたら面白そうな看板を見つけたのがきっかけ。手書きの横尾忠則みたいなペンキ塗りの看板がいかにも80年代キッチュ(今ではあまり使わないか)な古本屋だった。向かいには同じ店名の中古レコード屋もあった。
「ああこれはきっと好きな感じの店に違いない」と運命の出会いを感じて(この時点でまだこの店がどんな店かも知らずに)面接の申し込みをしに中に入ったら、運がいいことにちょうど社長が店にいて、その場で即決採用してくれた。
ROCKHURRAHは下北沢周辺に十年くらい住んだが、この店がそのスタート地点だったのだ。
ちなみに周辺というのは下北の隣駅、東北沢と世田谷代田で、憧れの下北沢は家賃が高すぎてどうしても手が出なかったのだ。
東北沢の安アパートは最初の二年で出て、その後は世田谷代田の環七近くに四年、さらに駅前あたりに四年、同じ町で引っ越してまで住んでる。そこまで世田谷代田が良かったかという事はまるでなく、単に下北沢に徒歩で行けるというだけが基準だったのだ。今はどうなってるのか知らないが小田急線の近隣、梅ヶ丘や豪徳寺には一応ある駅前商店街が世田谷代田には皆無だったからなあ。

さて、この古本屋は最初は下北沢に二店舗と笹塚に支店がある一応のチェーン店で、当時の下北沢を歩いてた人だったら誰でも知っている有名店だったが、ROCKHURRAHが在籍しているほんの数年で下北沢に五店舗、三軒茶屋、吉祥寺まで怒涛の開店を続けていた。恐ろしい経営手腕だな。

朝の10時から開店して夜中の1時までの店だったが、ROCKHURRAHは夕方6時からの遅番に配属された。
最初は古本屋の勤務で一緒に入ってたのが広島出身のK藤さんというややどもり気味の猫背の人だった。
割と地味な学生風の外観だったから知らなかったが、実は有頂天のケラが主催してたナゴム・レコードよりレコードも出してたインディーズのミュージシャンだった事がわかった。
欧米のパンクもニュー・ウェイブも大得意なROCKHURRAHだけど、日本のインディーズはそこまで聴かなくて、ナゴムのバンドもほとんど知らなかったんだよ。
このK藤さんはその後に伊丹十三監督の「タンポポ」や黒沢清監督の「ドレミファ娘の血は騒ぐ」など、映画にも出演して強烈なキャラクターを発揮していたが、東京で最初のうちに働いた場所で多少は有名人と関わっていたとはビックリだ。

そのうち古本屋の向かいにある二号店の勤務になったが、こちらは中古レコードとビデオ・レンタル(当時はまだDVDではなかった)の店だった。
こちらでお世話になったのは劇画家、松森正のアシスタントだったというF戸さんという人。
松森正は80年代には知る人ぞ知るような過去の存在だったが、70年代に「木曜日のリカ」という当時では珍しい女性スナイパーが主人公の劇画を描いてたな。子供の時にこのコミックスを所持していたので、その背景に関わっていたかも知れない人と働けるのは光栄な事だった。
F戸さんはその当時は漫画を描いてたのかどうかは不明だが、とても優しい大人の雰囲気の人だった。

やっと目標の一端、中古ではあるがレコード屋の一員になれたのでここの仕事はとても楽しかった。
四年くらい働いていたのでその間に同僚も随分替わったが、みんなとても個性的で何かを目指してる集まり。仲良くて毎日のように下北で飲んでたのが懐かしい。

  • 少年誌に漫画を描いてた(ほとんど無名だったが)宮崎出身のS谷さん。ムードメーカーで仲間内のリーダー的存在だったな。
  • 埼玉出身の絵に描いたようなパンク・ロッカーでROCKHURRAHと音楽的に一番近いA島、随分年下だったんだけど、彼とは家も近かったからレコードの貸し借りとか頻繁にしてたな。インディーズのパンク・バンドやノイズのバンドを掛け持ちしてたけど、バンド名は忘れた(薄情)。
  • 弟が川崎ヴェルディの有名なサッカー選手というT田、彼もパンク・バンドでベーシストをやってたので話が合ってたがVAPレコードに就職が決まり、なぜか福岡に転勤になってしまった。
  • 辞めた後で仲良くなって、泊りがけでいつも遊んでたM山。全然パンクでもニュー・ウェイブでもない専修大学の学生だったが、顔がなぜかジョニー・サンダースに激似というギャップが激しい男だった。東京で最も仲良くしてたし、この後のROCKHURRAHの転機となるきっかけが彼だったな。
  • 北海道出身でノイバウテンなどのノイエ・ドイッチェ・ヴェレとおニャン子クラブを偏愛する変わり者、H。同じ二号店の勤務だったので最も長い時間一緒にいたな。

他にも個性的な人間が何人もいて、常に5人以上とかで週に三回は下北沢で飲んでたな。
その後、一人二人と辞めていって離れ離れになってしまい、連絡とかもしてないから、彼らが今どこで何をしているのかも知らないんだけど、同時代の下北沢で素晴らしいメンツに出会った事が後の人生に全く活かされてないのが悔やまれて仕方ない。
薄情な自分だったから自業自得だけどね。

今回、扉絵にした2枚のシングルはどちらもその下北沢で入手したもの。
80年代がなんたらかんたら、などといつも言ってるくせしてどちらも70年代モノ、ただし入手したのは80年代というだけだよ。
しかもいつも敢えてヒネたのを持って来たがるROCKHURRAHには珍しく、王道中の王道アイテム。
パンク好きな人にはわざわざ説明するまでもない宝箱アイテムだな。

「ゼルダの伝説」で言うならばこのBGMが鳴るくらいのシロモノ。

ラモーンズの方は他でもない、この働いてた中古レコード店で手に入れたもの。
Promo Copy盤というものでこの大名曲のステレオとモノラルがA、B面に収録されているヴァージョン。これが珍しいのかそうでもないのかはROCKHURRAHよりも世の中の人の方が詳しいんだろうけど、個人的にはお宝の一枚である事には違いない。
前述のF戸さんに頼み込んで社販で購入したもの。
当時はまだそこまでプレミアはついてなかったように記憶するけど。

ダムドの伝説の一枚は全パンク・ロッカー垂涎のステータス・シンボルだね。
上に書いた店で働いていた時のこと。早番と遅番の間にあまり接点はなかったんだけど、交代時に少し会話を交わす程度。
その店の店舗ではなく事務所で働く女性が何人かいて、これも単なる事務員ではなく音楽や映像に暁通しているタイプが多かった。
その中の一人となぜかいきなり「ドクターズ・オブ・マッドネス持ってない?」などという大変にマニアックな会話になったのを今でも覚えてる。
70年代のイギリス、グラム・ロックやパブ・ロックがあり、それがパンクへと発展するような微妙な時代に活躍したバンドで、リチャード(キッド)・ストレンジというアクの強いヴォーカルがメインだった。デビュー当時のセックス・ピストルズを前座にツアーしてた事もある。
ROCKHURRAHは三枚のアルバムとシングルを所持していたが、メジャー・レーベルから出てた割にはこの時代には既に入手困難なレコードで、日本での知名度も低かった。
ヴァイオリンが活躍するバンドで歌もエモーショナル、大好きだった初期コックニー・レベルとオーバーラップする部分があって、好んで聴いていたのだ。
そんなバンドが気軽に日常会話で出てくるところが素晴らしい、ああ80年代の下北沢は良かったなあ。
同僚の暗黒ネオサイケ男(これまた割と有名なバンドやってた)N田といつの間にかいい仲になり、電撃的に二人で辞めていったと朧げながら記憶する。名前の記憶力が割といいROCKHURRAHなんだが、この人の名前はなぜか思い出せない。

で、ダムドの方はこの人の同僚でまた別の人。上に書いたエピソードは特に関係なかったな。
京都出身で確かROCKHURRAHよりも年上の短髪女性、S見さんと言ったな。
昔、ストラングラーズ来日の時にジャン・ジャック・バーネルのベースギターが頭に当たったというキズと武勇伝を持つ人で、あまり話した覚えはないがその印象が強烈に記憶に残ってるよ。
実家から松茸とか筍とか送られてくるという話を聞いた事があるから、きっといいトコのお嬢さんだったのかな?
この人が所有していたダムドのレコードを頼み込んで譲ってもらったのだ。国内盤シングルはたぶんこの当時でも伝説価格のレコードだったはずだが、破格の値段で譲って貰えた。
この頃はまだ若くて社交知らず、ロクなお礼もしなかったけど、今でも忘れないで感謝し続けています。

邦題「嵐のロックンロール」と名付けられたこの曲をウチのブログで語ったのは何度目だろう?その時代の映像はそんなに残ってないからせめて違うヴァージョンにするよ。
うんうん、このモノクロ・ビデオ、ROCKHURRAHも持ってたな。
ふざけた見た目だが意外と喧嘩っ早いキャプテン・センシブルの怒りシーンね。こういうトラブルにも場馴れしたライブ・バンドだなと思うよ。
映画「地獄に堕ちた野郎ども」は観に行けなかったが来年2月にDVDが出るのでそれで我慢しよう。

この店がどんどんつまらない方向性になってしまい、仲間も散り散りになってしまったから数年でROCKHURRAHも辞めてしまった。
その後は別の中古レコード屋でレコード洗いという珍しいバイトしたり、有名な廃盤屋にも少しだけ在籍(BGMが大音量過ぎて耳が危なくなった)したり、あまり長く続かないような仕事をしたが、それからは突然大きく進路を変えてなぜか全然違う仕事を始めてしまう。
この辺は今回にはあまり関係ないからまた別の機会に書くとしよう。

さて、延々と書いてきたどこにでもある自伝だが、今日は世田谷区編までとしよう。
面白くも興味深くもない記事だったが、まあ出来の良くない日記だとでも思ってね。

勝手に書いてきた元・仲間たちが今でも音楽に関わって生きているのかどうかは知らないけど、今でも若気の至りのまんまで生きてる、名もないパンクロッカー(未満)だったROCKHURRAHはここにいるよ。

ではまた、さらばシモキタ(大げさ)。

好き好きアーツ!#40 鳥飼否宇 part14–樹霊–

【私市康男の作品「冬至」をROCKHURRAHが作成】

SNAKEPIPE WROTE:

大ファンであるミステリー作家・鳥飼否宇先生の作品を再読して、感想をまとめるシリーズの続きを書いてみよう。
今回は2006年に発表された「観察者シリーズ」の「樹霊」!
今までに書いた鳥飼先生の作品に関する記事をまとめたカテゴリー「トリカイズム宣言」を読んでもらうとご理解頂けるのだけれど。
簡単に説明させてもらうと「観察者シリーズ」とは、大学サークルの野生生物研究会に所属していた4人が、卒業して何年(何十年?)経っても連絡を取り合い、奇妙な事件に巻き込まれる話なのである。

自称「観察者(ウォッチャー)」、通称トビさんこと鳶山久志が「観察者シリーズ」での探偵役として活躍する。
事件となる題材を拾ってくるのは、植物写真家である通称ネコこと猫田夏海、野生生物研究会メンバーの中での紅一点である。
売れっ子イラストレーターで、佐賀県生まれなのにベタベタの博多弁を話すジンベーこと高階甚平。
そして西荻窪で親からの遺産を相続し、マンションのオーナー兼「ネオフォビア」というバーの経営者である神野良。
この「付かず離れず」の良い距離感を保った4人が、摩訶不思議な自然現象だと思われた事象や事件を解決していくのが「観察者シリーズ」なのである。

今回の舞台は北海道!
「でっかいどう、北海道」の北海道である。
ん?わざわざ言うほどのことじゃない?
しかも古過ぎ?(笑)

植物写真家のネコが、北海道にある巨木の撮影をしているところから物語が始まる。
撮影していたのは「ミズナラ」という樹木。
推定樹霊1200年以上という非常に長生きの「ミズナラ」だという。
本当は文中に登場した「最上のミズナラ」や「双葉のミズナラ」の画像を載せたかったんだけど、著作権の問題を考慮して同種の「ミズナラ」画像(左)にしてみたよ。
長寿の巨木というと、例えばゲーム「ゼルダの伝説」に登場するような「デクの樹」様みたいに、なんでも知っている穏やかな賢人(賢木?)という印象があるよね。
長寿の巨木を前にしたら、霊験あらたかな気分で、知らず知らずのうちに手を合わせてしまいそうだもん。
きっとネコも撮影しながら巨木と対話していたんだろうね。

撮影終了後、ネコは「ミズナラ」のある場所を案内してくれた役場の職員から「古冠のミズナラが動いた」話を聞くのである。
ここで、SNAKEPIPEの自慢できないコーナー!(パチパチ!)
以前にも何度かブログに書いたことがあるけれど、関東地方(東京近辺)からほとんど出たことのないSNAKEPIPE。
授業での地理も苦手だったっけ。
そのため(?)地名も致命的に知らないことだらけ。(ぷっ!)
フルカップ(ブラ?)、振るカップ(揺らしてどうする?)と、全く違う想像をしてしまうのである。
どこにあるんだろう、と検索してみたけれど占冠はあっても古冠は出てこないなあ。
文中に北海道の日高地方とあったので、それで良いことにしよう!

好奇心旺盛なネコが「木が移動した」なんて話に飛びつかないわけがないよね。(笑)
更なる情報を得るために古冠村役場に向かうのである。
ここから先のあらすじはAmazonの商品紹介から引用してみよう。

役場の青年の案内でネコが目にしたのは、テーマパークのために乱開発された森だった。
その建設に反対していたアイヌ代表の道議会議員が失踪する。
折しも村では、街路樹のナナカマドが謎の移動をするという怪事が複数起きていた。
30メートルもの高さの巨樹までもが移動し、ついには墜落死体が発見されたとき、ネコは旧知の「観察者」に助けを求めるのだった。

「ミズナラ」に続いて「ナナカマド」(画像右)も移動するという謎を追いかけているうちに、失踪事件や殺人事件に巻き込まれ、古冠に足止めされてしまうネコ。
最初のうちはアイヌの方の自宅で手料理を頂いたり、アイヌの話を聞いたりして楽しそうだったのに。
もっと早く古冠を離れていれば良かったと後悔しているネコは、本当にかわいそうだった。
「樹霊」でのネコは今までにない「女性らしい」部分が表現されていて、ちょっとびっくりしちゃうんだよね。
そして長い付き合いだから分かるのか、ジンベーにあっさりと見抜かれていたところは、読んでいて微笑ましかった。
それにしても夜のホテルでネコとジンベーが2人きりになった時、ジンベーに強く腕を掴まれた瞬間、男女の関係を想像してしまった勘違いネコに笑ってしまったよ。(笑)
ジンベーとロマンチックなことが起こる確率は低いと思うけどね!

あらすじにある「30メートルもの高さの巨樹」というのが「ハルニレ」という樹木。
これもまた同種の画像を左に乗せてみたよ。
「フチ」と呼ばれている「ハルニレ」 だと文中にある。
「フチ」とはアイヌの言葉で「おばあさん」を意味するというから、これもまた長生きの樹木なんだろうね。
「樹霊」には植物の名前以外にアイヌの言葉がカタカナ表記されているので、植物の名前すら覚束ないSNAKEPIPEはたまに混乱することがあった。
もしかしたらSNAKEPIPEだけなのかも。(笑)

心細くなっているところへ、長い付き合いのトビさんやジンベーがかけつけてくれる。
トビさんは相変わらずトビさんらしい対応だったけれど、最終的には謎を解決しちゃうんだよね。
その語りは淀みなく、スラスラ読んでしまうんだけど、実は1回目に読んだ時にはトリックが難しくて理解し難かったことを告白しよう。
今回はその時の反省を活かして、脳内映像を混ぜながら注意深く読んでみたよ。
あれがこうなって、こうなるからと想像しながら読むと、なるほど!
そういうことだったのね! (笑)

トリックに関しては理解できたけれど、犯人の動機は難しかった。
理解や共感なんて簡単には言えない次元の話だと思うから。
そして他に方法はなかったんだろうか?とも考えてしまった。
非常に深刻で重いテーマだよね。
本当は誰もが考えなければいけない重要事項なんだと思う。
SNAKEPIPEには何ができるだろう?

「樹霊」では最後のほうにトビさんの珍しいシーンもあるんだよね。
飄々とした人間嫌いのトビさんらしからぬ、かなりレアな場面にも驚いてしまったSNAKEPIPE。
再読する度に新しい発見をして、嬉しいね!
いや、単なる物忘れ、とも言えるのか。(笑)

大好きなジンベーのファッションも素敵だったね!
レザーの上下にピンクのサングラスとは。
体型が小熊のジンベーなのに「好いとうもん、着とるだけっちゃ」の心意気が好きだよ。
このSNAKEPIPEが作った偽物の博多弁どうなの?(笑)

トビさんとネコが登場する「観察者シリーズ」は「中空」「非在」に続いての3作目になる。
読んでいる順番もまちまちで何度も読んでいる場合もあるので、SNAKEPIPEにとって「観察者シリーズ」の面々は旧知の仲のような存在。
そして鳥飼先生の著作から教えてもらうことが多いのも魅力なんだよね。
「樹霊」ではアイヌの文化や風習に関しての記述が興味深かった。
「カムイ」についての考え方は、例えばアメリカ先住民族であるインディアンが精霊に祈祷するのに近いように感じた。
森羅万象の全てに霊が宿っていて、その霊を敬い感謝することで共存していく、という解釈で良いのかな。
現代社会に生きていると難しいけれど、羨ましいと思ってしまう。
非常にシンプルだからね!
きっと鳥飼先生は奄美大島で、「カムイ」を体感なさっているのではないでしょうか。

次回のトリカイズム宣言は「昆虫探偵―シロコパκ氏の華麗なる推理」にしよう!
これもまた再読するのが楽しみ!(笑)

アンディ・ウォーホル展鑑賞

【ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの大好きな曲。映像酔いに注意!】

SNAKEPIPE WROTE:

去年のうちから森美術館10周年記念企画として「アンディ・ウォーホル展」が開催されることは知っていた。
そしてすでに鑑賞を終えた長年来の友人Mから
「ウォーホル展、すっごい良かったよ!あと3回は行きたい!」
という連絡も受けていたSNAKEPIPE。
ではせっかくなのでご一緒しましょうと、ROCKHURRAHも加わり、またもや怪しい3人組が六本木に集合することになったのである。

森美術館の開館時間に合わせて待ち合わせをする。
9時50分にチケット売り場を目指すと、もうすでにチケット購入を待つ人で溢れている。
ぎゃー!こんなにウォーホル展が大人気なのか!と思っていると、どうやら森アーツセンターギャラリーでは「ラファエル前派展」が開催されていて、半数以上のお客さんはそちらが目当てだったみたい。
あー、びっくりした!
きっとあやしい3人組は「ラファエル前派展」鑑賞チームとは思われなかっただろうな。(笑)

去年8月に国立新美術館で開催された「アメリカン・ポップ・アート展」も六本木だったので、2年連続でポップアートの展覧会が催されるのは珍しいんじゃないかな。
あの時はポップアートを支援していたパワーズ夫妻のコレクションが展示されている企画だったので、ウォーホルだけじゃなくて、複数のアーティストの作品を鑑賞することができたんだよね。
今回はウォーホル一人だけの展覧会。
「アメリカン・ポップ・アート展」の時のウォーホルについての感想に

有名な作品が展示されていたけれど、
あまりにも見慣れすぎているためか
確認作業をしている気分になった

と書いているSNAKEPIPE。
果たして今回の「アンディ・ウォーホル展」はどうなんだろう?
既に有名な作品については、その道の専門家もいてSNAKEPIPEが語るよりもずっと詳しい説明がされているはず。
シルクスクリーンについての説明はそんな御仁にお任せすることにしよう。
今回はもっと初期の、シルクスクリーン以前の作品について書いてみようかな!

入場するとすぐにウォーホルの自画像や写真など、ウォーホル本人に関する作品が展示されている。
確かにウォーホルってマリリンなどの有名な作品に負けないくらい、本人が前に出るアーティストだったもんね。(笑)
同じようにポップ・アートだったらすぐに名前の出てくるロイ・リキテンスタインは作品は知っていても、リキテンスタイン本人をすぐに思い浮かべることはあまりないよね。

ウォーホルの子供時代の写真や80年代の女装した写真などを鑑賞した後に、商業デザイナーとして活躍していた頃の作品が展示されている。
以前ウォーホルに関する本は何冊か読んだことがあり、デザイナーだったことは知っていたはずだけど、その当時の作品を観た記憶はない。
ウォーホルといえば、シルクスクリーンを使った例の作品群ばかりがクローズアップされるから余計だよね。
上の画像はウォーホルが女性ファッション誌用に描いたイラストである。
華奢なピンクのサンダルが横向きに描かれている。
他にも靴、バッグ、洋服など女性が喜びそうな素敵なイラストがたくさんあって
「ウォーホルって絵が上手!」
と今頃になって気付いてしまうのだ。
だってウォーホルの肉筆画を観たことないからね!

いくらアメリカのピッツバーグ生まれとは言っても元々スロベニア移民の子であるウォーホルだからなのか、色使いや構図がアメリカっぽくない感じがした。
鳥や蝶をモチーフにした作品が何点かあり、陶器や花瓶などに描かれていたら似合いそうな雰囲気。
そんな中、非常に目を引いたのが右の「2歳のアンディ」という作品である。
まるで子供がいたずらで描いてしまったような、ぞんざいな線がたまらない!(笑)
頭に乗ってる蝶、左右違う太さと長さの腕、無関心そうだけれど、ちょっと笑ってる顔!
本当にアンディ・ウォーホルが2歳の時はこんなだったのかな?

初期の作品でポスターがあったら欲しかったのが左の「feet」ね。
文字を描いている部分と貼り付けている部分が混在していて、とても魅力的だった。
別バージョンで手もあったんだけど、この2枚を並べて部屋に飾りたかったなあ!
ところが残念なことに、販売されていたのはやっぱりいかにもウォーホルらしいポップ・アート系の作品をモチーフにしたものばかり。
一目でウォーホルだ、と判るものじゃないと売れないんだろうね?

今回の展覧会で面白かったのは、ウォーホルがニューヨークで作品制作を行っていた「ファクトリー」を再現したスペースがあったことと、「タイムカプセル」と称されたウォーホルがコレクションしていた雑多な資料の展示。
「ファクトリー」に関しては、今までにも何度かブログで書いたことがあるけれど、SNAKEPIPEの憧れの場所なんだよね!
一度行ってみたかったなあ!
もちろん「ファクトリー」にたむろしているような人種は、何かしらアート関係に携わっているような、日本で言うところのカタカナ職業(死語)で成功している人たちだろうから、見学に行くような場所じゃないんだろうけどね。(笑)
芸術家達の交流の場だっただろうなと想像するだけでワクワクしちゃうんだよね!

「タイムカプセル」は、なんでも収集していつまでも捨てないでいる性格が見えて、ウォーホルらしさがよく解るよね。
お菓子の包み紙とか、どこかの店のコースターまであるんだもん。
生涯独身だったというウォーホルは、もしかしたら子供っぽさをいつまでも持ち続けていた人だったのかもしれないね?

「アンディ・ウォーホルTV」という番組があったのかな、あまりよく知らないまま用意された椅子に座り映像を鑑賞していた時、驚くことがあった。
何かのパーティのシーンで、会場までTVカメラを案内していたのがなんと「ツイン・ピークス」での赤い服を着た小人だったの!
その映像では「ゼルダの伝説」のリンクみたいな服装だったけどね。
赤い服の小人については先週のブログでも書いたばかりだよね!
友人Mと顔を見合わせ「あっ!」と叫んでしまった。(笑)
奇妙な偶然の一致に驚かされたよ。

複製をアートとして認めさせてしまった、というのがウォーホルのすごいところだろうね。
マルセル・デュシャンがレディ・メイドをアートにしたのは1917年とのことなので随分昔の話だけど、世の中で一体どれだけの人がデュシャンの「泉」を知っているのかなあ。
ウォーホルのことはかなりの人が知っているに違いない。
アートを大衆にも行き渡らせた功績は大きいよね。
一目でウォーホルの作品だと判ってしまう点も含めて、ね。

残念だったこと2点。
1点目はヴェルヴェット・アンダーグラウンドについてほとんど紹介されていなかったことかな。
出ていたのは映像作品で少しだけ。
鳥飼否宇先生から頂いた今年の年賀状にも「ルー・リードが亡くなってしまいました」と書かれていたけれど、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメンバーだったルー・リード死去などについては一言もなかったからね。
音楽との関わりも楽しみにしていただけに物足りなかったな。

もう1点は、観客のこと。
情操教育のつもりなのか、鑑賞した日は子供連れの家族が多く、非常に不快な思いをさせられた。
子供が走り回る、奇声を発する、大声で泣く。
静かに鑑賞している他のお客さんに迷惑がかかるような場合には、森美術館側でも対処して欲しかったな。
美術館は遊園地とか公園じゃないから。
静かに鑑賞できない子供は入場させないルールを作ろう。
映画と同じようにR指定が必要じゃないかと思ってしまう。
扱いとしては図書館と同じではないかと感じるがどうだろう?

去年の「アメリカン・ポップ・アート展」とは印象を変えて、アンディ・ウォーホルというアーティストをよく知ることができた展覧会だと思う。
最初に書いた「確認作業」だけにならなくて良かったな。(笑)

ウィリアム・ブレイク版画展/メタボリズムの未来都市展

【ブレイク展とメタボ展を合わせた画像。意味不明。(笑)】

SNAKEPIPE WROTE:

長年来の友人Mから連絡をもらい、横浜美術館で開催中の松井冬子展へ誘われたのは今から2ヶ月ほど前のことである。
予定を合わせ、せっかくだからお昼は中華街にでも繰り出して豪勢にいこうか、などと約束の前日に電話していた時に
「げえっ!うそーーー!」
といきなり大声を出す友人M。
何事かと思い聞いてみると、な、なんと!
約束をしていた木曜日は横浜美術館の休館日!
せっかくの計画がお流れになってしまった。
二人共全く休館日のことを調べていなかったとはなんとも不覚!深く反省!(ぷっ)
それでも「アート鑑賞をしたい確率95%と推測されます」という、ゼルダのファイに指摘される状況だったので、今鑑賞できる面白そうな企画はないものか、と調べまくったのである。
ROCKHURRAHも一緒に調べてくれて、探し当てたのがウィリアム・ブレイク版画展。
これは良い!と横浜から急遽上野に行き先を変えたのである。

上野は中田商店動物園に行く用事で年に何度か訪れる場所である。
そういえば今年の花見も上野公園に行ったんだっけ。
身近に感じられる土地だけれど、上野に点在する美術館や博物館の全てを巡った記憶がほとんどない。
今回ウィリアム・ブレイク版画展を開催している国立西洋美術館にはもしかしたら初めて行ったのではないだろうか。
現在開催している目玉はゴヤ展なので、ウィリアム・ブレイク展はオマケ程度の扱いだろうと予想はしていたけれど、ここまで予想的中とは!
常設展の中の一角に設けられた特設会場といった感じで、その場所に行くまでの道のりの長いこと、長いこと!
友人MもSNAKEPIPEもあまり興味を示さないような何枚もの「西洋絵画」を通り抜け、移動距離にして恐らく1万マイル程歩いて(大げさ)やっと会場に到着。参るな!(プッ)

ウィリアム・ブレイクは1757年イギリス生まれの詩人、画家、版画職人である。
「当時、英国の版画家たちの主な仕事は、画家から提供された原画を忠実に複製することでした。この趨勢に抗い、自らの創意に従って制作を進めたブレイクは、異色の存在であったと言えるでしょう。」
という西洋美術館の説明にあるように、ブレイクは独自のセンスと創造力で作品作りをしていたようである。
そしてその仕事は同時代人にはほとんど理解されることはなかった、という悲しい事実も初めて知ったSNAKEPIPE。
今では世界中にファンがたくさんいるのにね!
多くのアーティストに多大な影響を与えていることは、wikipediaなどでご確認頂きたいと思う。
実はSNAKEPIPEはブレイクについてそこまで詳しいわけではなくて、興味の対象となったきっかけは、トマス・ハリスの著作「レッド・ドラゴン」の巻頭に「巨大な赤い龍と太陽の衣をまとった女」というブレイクの水彩画が載っていたこと。
小説の中でかなり重要な役割を担っていたこの絵画がとても幻想的で、すっかり魅了されたSNAKEPIPE。
ウィリアム・ブレイクと聞いて初めに思い浮かべたのが「レッド・ドラゴン」というのは友人Mも同じだったようである。

今回の版画展では、旧約聖書「ヨブ記」やダンテの「神曲」の挿絵が展示されていた。
エングレービングという版画の技法で制作された30点程を鑑賞することができる。
細部まで丁寧に描きこまれた幻想的な世界観は、非常に魅力的で、是非ブレイクの挿絵付き「ヨブ記」と「神曲」を入手し、読んでみたいと思ったSNAKEPIPE。
だけど本の挿絵なので、B5くらいの小ささしかないんだよね!
しかも大人気のゴヤのあとで「ついでだから」みたいな人が大勢いる中、この展示だけを目的に来た友人MとSNAKEPIPEには非常に残念な鑑賞時間になってしまった。
せめて図録やポストカードを手に入れたいと思ったのに、ブレイク関連は全く販売されていない。
うーん、とってもガッカリ!

ブレイク展だけではとても「アート鑑賞満足度」がアップしなかったので、もう一つ観に行こうということで六本木に移動。
森アーツセンターギャラリーで開催されている「歌川国芳展」はROCKHURRAHを加えた3人で行く予定なので今回はパス!
ということで「メタボリズムの未来都市展」を鑑賞することに決定!
恐らくほとんどの方が「えっ?メタボ?」と腹回りのサイズを気にする例のあの言葉を思い浮かべるはずであり、SNAKEPIPE自身も同じように思っていたのである。
ところが!なんとこれは「1960年に開催された『世界デザイン会議』を機に、建築家の黒川紀章菊竹清訓槇文彦大髙正人、デザイナーの栄久庵憲司粟津潔、建築評論家の川添登らによって結成されたグループの活動」とのこと。


「生物学用語で『新陳代謝』を意味する『メタボリズム』。それは、環境にすばやく適応する生き物のように次々と姿を変えながら増殖していく建築や都市のイメージでした。戦争で荒廃した日本が復興し高度経済成長期へと移行した時代に、東京湾を横断して伸びていく海上都市、高く延びるビル群を車が走る空中回廊でつないだ都市などを発想し、未来の都市像を考える活動でした。」

SNAKEPIPEが少し文章を要約したけれど、メタボリズムの活動とはなんぞや?には上のような説明がされている。
建築家を中心により良い社会、環境との共存、狭い日本の土地問題など、様々な観点から都市計画を考えていたグループ、といえるんだろうね。
そしてこの計画というのが、奇想天外なモノ、いわゆるSF的な感じの建築、などがたくさんあって非常に興味深い。
1950年代から1960年代の建築家というのは、空想を実現する力があったんだね!
それらのほとんどが計画のみで「実施せず」とされていたので、何かしらの原因があって実現には及ばなかったんだろうけど、発想の豊かさには驚かされる。
もしそれらの計画が全て実施されていたら、現代の日本はかなり変わっていたんだろうね。
ただし、DNAらせん状の家とか、ビッチリと横並びに並んだ幾何学模様型の建築などは、方向音痴のSNAKEPIPEには厳しいかもしれないな。
自分の家に帰れない人続出、なんて事態が大量発生しそう。(笑)

どの世界でも同じだと思うけれど、例えば写真家といえば?などと質問をした場合、恐らく返ってくる答は「アラーキー篠山紀信!」の二人くらいだと思う。
この現象ってきっと30年前から変わってないような気がするけどどうだろう?
そして同じことが建築の世界にもあるように感じる。
というのも、SNAKEPIPE自身が「建築家といえば?」と質問を受けた場合に、知っているのが「磯崎新と黒川紀章」しかいなかったからである。(笑)
以前建築を志している友人と話をした時その話になり、SNAKEPIPEが2名しか知らないことを打ち明けると非常に驚かれたものだ。
えっ、それしか知らないの?と思ったに違いない。
でもきっとその友人に写真家について尋ねたら同じレベルだっただろうね。
今回展示で紹介されていた建築家も、初めて名前を知った人ばかり。
その世界に入らないと知らないことっていっぱいあるもんね!

50年も前に斬新な空想力で都市の変革を真剣に考えていた日本の建築家がいたことを知ることができて、今回の「メタボリズム」展を鑑賞できて良かったと思う。
それにしても図録4800円は高過ぎ!買えましぇ~ん!(涙)